湯女
概要
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湯女
Courtesan in hot spring
1918(大正7)年
絹本彩色、屏風(2曲1双)197.6×390cm
color on silk, a pair of twoーfold screens
第1回国画創作協会展
土田麦僊は近代人であろうとする欲求と日本画の置かれている状況との落差の間で悩み、ヨーロッパ美術に対する強い憧憬をもちつつ自己の芸術の方向を模索した。「油絵具でなければ自分の心情は表現できない。何度か日本画を呪い、捨てようかと思った」という意味のことをのちに書いている。究極的には西洋近代絵画へ明かれた目を日本の古典的絵画へ向けて、そこに近代絵画を成り立たしめる要素を再発見し、この経緯のうちに自己の画風を築くのだが、〈湯女〉は後期印象派への強い共鳴を示していた時期の作品である。麦僊が意図したのは、どちらが主でも従でもない風景画と人物画の融合であった。好色本や黒表祇本、黄表紙本、さらに鳥居派の作例などもひろく学び、江戸風俗画の官能やルノワールの情感、大和絵や挑山障屏画の雄渾な装飾感など、さまざまな要素を渾然と画面の中にとりこんでいる。国画創作協会第1回展に出品し、村上華岳の〈聖者の死〉とともに注目された作品である。