越中砺波郡行兼村 村御印
えっちゅうとなみごおりゆきかねむら むらごいん
概要
村御印とは江戸時代前期に加賀藩が領内(現富山・石川両県)各村に配布した年貢徴収令状(割付状)。はじめ慶安2年(1650)に出され、その後、加賀前田家3代当主・前田利常(1594~1658)が晩年に行なった農政改革「改作(仕)法」が成就した、明暦2年(1656)8月1日付で出された。更に寛文10年(1670)9月7日付でも出されており、これは幕府にならい加賀藩も「新京枡(1升≒約1.8㍑)」を採用し改められたものである。この時以前のものと交換されたので、現存するほとんどはこの日付のものである。当時利常は没していたが、村御印(改作法)は利常の功績であるので、最後に利常の印「満」が捺されている。村御印の「御印」とはこの印のことである。
各村の草高(石高)、年貢率である免(めん)、小物成(各種の収益にかかる税)や夫銀・口米という雑税などが記載される。
各村の情報や当時の藩の農政(農制)などもうかがえる貴重な史料である。
行兼村の場合は、草高277石、免4つ5歩(45%)となり、年貢(定納)高は124石6斗5升(277×45%)となる。小物成はなく、ほぼ全ての村民が稲作農家であったと思われる。
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【釈文】
越中砺波郡行兼村物成之事
壱ヶ村草高 内明暦弐年百姓方ゟ上ニ付無検地極、
一、弐百七拾七石
免 四ツ五歩 内七歩壱厘、明暦弐年ゟ上ル、
本米拾三石
一、弐石六斗 敷借利足
明暦弐年ニ令免除、
右免付之通、新京升を以可納所、夫銀定納百石ニ付百四拾目充、口米石ニ壱斗壱升弐合充可出者也、
寛文拾年
九月七日(黒文円印「満」)
行兼村 百姓中