徳川家康御判物 永禄7年(酒井忠次宛)
とくがわいえやすごはんもつ
概要
永禄7年(1564)今川氏真の重臣小原鎮実 の守る吉田城(現在の豊橋市)を攻める際、酒井忠次は無血開城に成功、こうして東三河から今川勢力が一掃され、徳川家康による三河統一が完了する。この御判物は、吉田城攻略の二日後、家康が忠次に与えたもので、吉田城攻略と積年の功を賞して、忠次に吉田城を与え、東三河の支配をまかせている。領地としてひとまず吉田北郷一円を与え、吉田入城の後、さらに新知を授けると記している。それは徳川家の重臣として忠次の地位を実質的に保証したものである。
永禄7年(一五六四)6月22日家康は三河一向一揆を鎮圧後、今川戦力の中心拠点の一つだった吉田城(現在愛知県豊橋市)を攻撃し、その先鋒は酒井忠次に託された。本史料は、忠次に室(牟呂)と吉田小郷一円の知行支配を認め、吉田城入城後の東三河支配を申しつけたものである。また岡崎城と吉田城の間に位置する山中の地も安堵されている。
吉田東三河之儀申付候、異見
可レ仕候、室吉田北郷一円ニ出二
置之一其上於二入城一者、新知
可レ申付候、由来如二承来一山中之
儀可レ有二所務一候、縦借儀等ニ
向候共、不レ可レ有二異儀一者也、仍而如レ件
永禄七年甲子 蔵人
六月廿二日 家康(花押)
酒井左衛門尉殿
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