老松に雀図屏風
ろうしょうにすずめずびょうぶ
概要
老松に雀図屏風
ろうしょうにすずめずびょうぶ
堀川敬周(1789頃~1858) (1789頃~1858)
ほりかわけいしゅう
富山県高岡市
天保13年8月/1842年
紙本著色,金箔散らし
〔本紙〕縦121.2cm×横300.0cm
〔全体〕縦136.5cm×横316.2cm
1
富山県高岡市古城1-5
資料番号 3-01-01-31
高岡初の町絵師・堀川敬周筆の《老松に雀図屏風》である。六曲一隻の屏風全面に老松が右方向に枝を広げる。その枝に抱えられるかのように一羽の雀がおり、左下の地面に留まるもう一羽の雀を見ている。松の根元には芙蓉や秋海棠、犬蓼などの花が咲き、画面に華やかさをもたらしている。背景には金箔片が散らされ、霞がかったような空気感を醸し出している。一隻屏風だが、本資料と対になる右隻があった可能性も考えられる。
本資料以外で屏風一隻全面に描かれた敬周作品は、《牡丹に孔雀図屏風》江戸後期、六曲一隻(当館蔵)、及び《龍の図屏風》1845年、六曲一双(高岡市・正徳寺蔵)の2件しか現在確認されておらず、本資料は代表作の一つといえよう。
落款は第六扇左下に「壬寅秋八月写/敬周」とあり、印章は朱文方印「公載氏」と白文方印「長汀」が捺されている。
【注】
※【堀川 敬周】ほりかわ けいしゅう
生没年:寛政元(1789)頃~安政5(1858)・11・24
江戸後期に商工活動が盛んになった高岡で現れた最初の専門町絵師。天保・弘化年間(1830~48)を中心に活躍し、初期高岡画壇の礎を築いた。姓は「源」、字(あざな)(もしくは氏)が「公載」といい、また「長汀」とも称した。『高岡史料』下巻(1909年、高岡市)によると、高岡堀上町の紺屋・湊屋平助の二男として生まれ、片原中島町の画人・堀 蠖翁の養子となった。銅漆器の図案などを描いていたが、京都へ上り四条派の紀広成、東東洋に学び、山水・花鳥・人物などあらゆる画題を修得した。文化末期頃に高岡へ帰り、多くの作品を残した。一方、漢詩人・大窪詩仏、金沢の俳人・梅室、瑞龍寺の閑雲禅師ら多くの文人墨客達と親交を持ち、洒脱な俳画や風俗画も描いた。また高田蕙圃など多数の弟子を育成した。
ちなみに2018年末に発見された、亡くなる4年前の嘉永7年(1854)4月付の「堀川敬周地面売渡証文」(当館蔵/1-01-145)では、家のあった片原横町の土地を何らかの理由(補筆では「貧にして」)で売却した記録がある。作品は多いが手紙などは発見されておらず、人物として詳細の知れない敬周を知る上では極めて貴重な史料である。
【主要参考文献】
・高岡市立博物館『企画展 高岡の絵師 ―堀川敬周とその弟子達―』2003年
・神保成伍「高岡最初の専門絵師「堀川敬周」」(高岡市立美術館・博物館誌「高志の華」№35、1980/1/30)