堀川敬周地面売渡証文
ほりかわけいしゅうじめんうりわたししょうもん
概要
高岡初の専門的町絵師・堀川敬周の死の4年前の嘉永7年(1854)の「地面売渡証文」である。敬周は『高岡史料』では高岡片原中島町に住んだというが、この史料に町名は記載されておらず不明(裏書(異筆)には敬周は片原横町に住んだとするが、片原中島町の誤りか)。この地所を大工清蔵に金6両2歩(約675,000円/1両≒75,000円/HP「古文書ネット」)で売却した際の証文である。当時、地面は全て藩主のものなので、建前として「売却」とは明記せずに「請所」としている。片原横町は藩よりの借地である「地子町(じしまち)」に分類され、藩へ地代(史料には「御年貢米」)を支払わなければいけなかった。
そして、裏面には「湊屋平助」の一筆がある。しかし、「湊屋平助」は堀上町の紺屋で敬周の実の父と同じ名前である。敬周最晩年の史料なので、おそらく2~3代後の人であっても襲名しているものと思われる。
また、裏面には史料とは異なる筆(筆者不明)で、後世の加筆がある。それよると、「先生(敬周)ハ家貧ニシテ宅地所ヲ売却セラレタル証文ナリ」(敬周は家が貧しかったので、宅地所を売却した証文である)とある。
多くの作品があり、また俳人としても活動し、多くの文人墨客とも親交をもっていたので、敬周は裕福な生活をしていた可能性もあったが、この史料でその可能性が薄れた。しかし、常に貧しかったのか、何かがあって貧しくなったのかなどまだまだ不明な点が多い、敬周について一つ重要な情報をもたらす貴重な史料といえよう。