大坂・兵庫・友ケ島海図
おおさか・ひょうご・ともがしまかいず
概要
大坂・兵庫・友ケ島海図
おおさか・ひょうご・ともがしまかいず
江戸時代、文久3年/1863年
紙本墨書
115.7×77.7
1幅
来歴:1992神戸市立博物館
参考文献:
・神戸市立博物館『神戸開港150年記念特別展 開国への潮流―開港前夜の兵庫と神戸―』図録、2017 ・神戸市立博物館『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―』図録 2019
「大坂海図」「兵庫海図」「友島海図」の三図からなる1/24,000 縮尺の海図です。凡例にあるように、国界、郡界のほか、山、洲・隠洲・暗礁といった地形情報、碇泊所や仮碇泊所、人家・灯明台・台場などの人工構造物の情報が記載されています。海底の深浅の単位は間尺であらわされ、深度については概ね干潮時の測定値を基準として6尺程度の干満差があることが付記されています。また、経緯度目盛りや磁針方位、距離尺や記号を説明した凡例の記載もあります。水深の単位が間尺であり、測量された水深の数も少ないものの、近代的な海図としての技術水準を満たしています。
文久3 年(1863)には軍艦頭取矢田堀鴻(同年3月軍艦奉行並昇格)や軍艦方の甲賀源吾、飯塚廉作、北條虎五郎らが大坂湾の測量に従事しており、彼らの測量成果に基づいた図だと考えられます。軍艦奉行並勝海舟は、同年5月17日の夕刻に二条城に登城して、「大坂内海の測量図」を献上しています。また、彼のもとには5月23日にも、大坂から「内海測量の図」が届けられています。この図は、尊攘派の公卿姉小路公知に献上される予定のものでした。しかし、姉小路は5月20日に朔平門外において暗殺されたため、勝海舟は、老中を通じて御所へ進呈してもらえるよう、勘定奉行川勝広運に依頼しています。こうした勝海舟の動きをみると、海図は近代的な測量に基づく科学的成果であると同時に、機密情報を含む政治的道具としての性格も併せ持っていたといえるでしょう。
【開国・開港】