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乾漆三島手花生

かんしつみしまではないけ

概要

乾漆三島手花生

かんしつみしまではないけ

民俗 / 昭和以降 / 富山県

木村天紅  (1887~1950)

きむらてんこう

富山県高岡市

昭和14年/1939年

木,漆・乾漆,彩色

口径12.4cm×高20.9cm

1口

富山県高岡市古城1-5

2-11-02-25

高岡市蔵(高岡市立博物館保管)

本資料は、高岡ゆかりの漆芸家・木村天紅が製作した乾漆花生である。本資料は胴部に膨らみを持たせてあり、左右両側に紐を捻ったようなデザインで把手が2箇所付いている。表面には彩色が施されており、口縁部の周囲に顔料が廻らされている。また、口縁部から底部にかけて黄色の顔料で丸模様が上下に羅列して描かれている。底部は朱漆で銘が入っており「天紅」とある。
 また、本資料には収納木箱(共箱)が付属しており、蓋表の右上には「乾漆普茶原/三島手花生」、蓋裏左下には「昭和己卯(14年)新緑(5月)/竹樹工房天紅造」と墨書され、白文円印「天紅」が確認できる。また、本資料を包む鬱金にも同様の墨書と印が捺されている。天紅は昭和12年頃には東京に移住したので、本資料は東京で制作されたと思われる。また当時「竹樹工房」という工房を開いていたことが分かる。
 本資料には目立った汚れや傷などもなく、保存状態は良好である。


<乾漆技法>
 奈良時代に始まる漆工芸の技法。土または木の原型に木屑などを混ぜた糊漆を塗り、その上から麻布を貼り、さらに上に漆を塗ることを繰り返してかたどるもの。成形後に型を抜き取る「脱乾漆(だつかんしつ)」と仏像などのように木芯に布を貼り重ねていく「木(もく)芯(しん)乾漆(かんしつ)」とがある。



<三(み)島(しま)手(で)>
 朝鮮系陶器の一種。細かい縄状の文様のある高麗象嵌焼の陶器。模様が三島暦(応仁・文明の頃、伊豆の河合家で編製し、三島大社から頒布した仮名の細字書きの暦)の文字の流れに似るのでこのようにいわれる。李朝初期から中期にかけて焼かれたもので、水差し茶碗などに多く用いられる技法である。



◆木(き)村(むら)天(てん)紅(こう) 
[生没年:明治20年(1887)9月30日~昭和25年(1950)5月25日]
 射水郡高岡市大仏町(現・高岡市新横町)出身の漆芸家。本名は伊三次郎。号は天紅。明治37年(1904)に県立工芸学校(現・高岡工芸高校)漆工科、同44年に東京高等工業学校応用学科の両校を卒業し、同45年に福島県立工業学校、大正2年(1913)富山県立工業試験場で勤務した。
 同5年には朝鮮総督府中央工業試験場で働きながら螺鈿技法の研究指導にあたり、同10年(1921)には朝鮮工人7~8名をともに高岡に帰郷し、坂下町に「朝鮮之螺鈿(漆器)社」を設立して漆器生産を始める。天紅は朝鮮特有の割貝技法を取り入れ、貝は鮑(あわび)の中厚貝を使い、文様の糸鋸やクイ切りで貝を切って製作した。また一般的な木製漆器のほか、金(きん)胎(たい)(金属の素地)や陶(とう)胎(たい)(陶器の素地)に独自の青貝加飾を駆使し、高岡漆器に朝鮮螺鈿(らでん)の技法を取り入れ、その発展に大きく貢献した。
 晩年の昭和12年(1937)頃になると、天紅は東京・池上本門寺に移り住んで乾漆を手がけ、徳富蘇峰や高村光太郎、北大路魯山人らと親交を深め、絵画や書もよくした。享年63。

※参考文献
・『富山大百科事典』上巻(北日本新聞社、1994)
・『高岡三代名作美術展』目録(高岡市立美術館、1989)
・『高岡漆物語』(伝統工芸高岡漆器協同組合、1996)

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キーワード

漆器 / 高岡 / / 技法

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