相撲土俵四本柱
すもうどひょうよんほんばしら
概要
柱に彫られた御免彫りの陰刻銘に「安西 惣氏子中」とあり、江戸時代末期に安城村西尾での祭礼で相撲が奉納されたときに使用されたものと考えられる。本来、柱は4本あるはずだが、現存しているのは3本である。
銘中に「免許」とあるが、これは江戸相撲の年寄であった清見潟部屋の4代目清見潟又市(生年不明~明治2年 ?~1869 文久2年(1862)襲名)が免許したことを表している。清見潟部屋は、初代清見潟又蔵が三河国幡豆郡和気村(現西尾市)の出身だった関係で三河地方の相撲興行に強い影響力を持ち、この時は4代目の清見潟又市が免許した。当時は、地方の村の祭礼での奉納相撲といえども、江戸相撲の年寄の免許がなければ柱を建てることができなかった。さらに柱にはそれぞれ二子山長十、若虎仙蔵、三河嵜大吉が、この奉納相撲の頭取を務めたことも記されている。二子山長十は幡豆郡八ツ面村(現西尾市)、若虎仙蔵は同じく幡豆郡市子村(現西尾市)、三河嵜大吉は碧海郡桜井村(現安城市)の出身で、清見潟部屋の地方頭取であった。とくに二子山長十は清見潟の「三河の総頭取」とも言われていた人物である。なお、二子山長十は上条町神光寺の相撲土俵四本柱にも取次ぎを務めたことが記されている。
安城市内に現存する相撲土俵四本柱はこの若一王子社蔵の柱のほかに、福釜町内会と上条町神光寺にあり、3組とも清見潟又市による免許と記されているが、その年代から福釜町内会のものは若一王子社と同じく4代目又市、神光寺のものは3代目又市と考えられる。