中城ハンタ道
なかぐすくはんたみち
概要
ハンタ道は,首里を起点として西原間切(にしはらまぎり)の幸地(こうち)グスクを通り沖縄本島の東側を北上し,中城間切の新垣(あらかき)グスク・中城城を経て,勝連間(かつれんま)切(ぎり)の勝連城に至る琉球王府時代の街道で,首里・中城(なかぐすく)・勝連(かつれん)の各城を結ぶ最短ルートである。「ハンタ道」とは崖沿いの道の意味である。中城城の主要部が築かれた14世紀後半までに整備されたものと考えられ,15世紀後半以降は中頭方(なかがみほう)東海道(とうかいどう)の道筋となり,間切(まぎり)間を結ぶ宿次(しゅくつぎ)の道(宿道(しゅくみち))として機能した。その後,17世紀後半以降,宿道としての機能を終え,それ以後は地域の集落や間切をつなぐ生活道として利用された。1853年には,米国ペリー艦隊の探検隊がハンタ道を使用している。今回,中城村教育委員会が実施した歴史の道整備事業の成果に基づき,新垣地区と伊舎堂(いしゃどう)地区のハンタ道及び関連遺跡の保存を図る。新垣地区では,約330m分の道が良好に残り,15世紀頃と近世の二時期の石敷きも見つかった。沿道には集落遺跡,集落を守る新垣グスク,ペリー探検隊が休息した地点が残る。また,伊舎堂(いしゃどう)地区では,約250m分の道が良好に残るほか,神事を司ったノロの添石(そえいし)ヌンドゥンチの墓も所在する。このように,中城ハンタ道は,14世紀後半頃には整備され,首里から中城城を経て勝連城までを結ぶ主要道として,また15世紀後半以降は中頭方東海道として機能した道であり,往時を偲ぶ道路が良好に残存し,沿道には関連遺跡も残っている。琉球における交通の歴史を理解する上で重要である。
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国指定文化財等データベース(文化庁)