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有岡城跡

ありおかじょうあと

概要

有岡城跡

ありおかじょうあと

城跡 / 近畿 / 兵庫県

兵庫県

伊丹市宮ノ前・伊丹

指定年月日:19791228
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

S54-6-041有岡城跡.txt: 摂津[[伊丹]いたみ]の地は、鎌倉末期頃から伊丹氏が居住した所である。伊丹氏は、南北朝の内乱の際、足利氏につき軍功をたて、現在の国鉄福知山線伊丹駅周辺に居を構えていた。その居館は、たびたび、細川氏・赤松氏・三好氏・柳本氏・一向一揆衆の攻める所となり、少なくとも永正16年・享禄2年には落城している。伊丹氏の城は、天正2年、荒木村重によって落され、以後、摂津の大名荒木村重の本城として大改修された。それにつれ、城名も有岡城と改められた。天正7年9月、村重の没落後は、池田之助が城主となり、城名を伊丹城に復したが、天正11年、池田氏が摂津より美濃に転封を命ぜられて以後は、伊丹の地は豊臣秀吉の直轄地となり、城も廃されたらしい。
 この城は、旧伊丹郷町の中央部東端、段丘が東に張り出した地形を利用して造られているが、その最終期、荒木氏時代の城の輪郭は、寛文9年の伊丹郷町古図、伊丹元禄大火之図及び延宝5年の昆陽口村古図等によっておおまかに知ることができる。寛文9年の古図によれば、濠で囲まれた城域は、東西二条の空濠、南北一条の空濠によって5区画に分けられており、北側に本丸、東側中央に天守、東側南に二ノ丸金間が造られ、西側も2つに分けられている。おそらく、北側から東にかけての一帯が本丸で、その南には二ノ丸が置かれていた構えであったと思われる。
 この城跡は、明治26年の軽便鉄道とこれに続く阪鶴鉄道(現国鉄福知山線)の開通によってこわれ、城跡の東側は、鉄道施設や道路敷等のため大きく切り崩された。したがってこの城跡は、現在、西側の一部が残っているにすぎない
 残された城跡も、国鉄福知山線の複線電化工事の施行により、伊丹市は伊丹駅前の都市整備を行うこととなったため、昭和50年から4年にわたり、伊丹市教育委員会の手で発掘調査が行われた。その結果、この城の遺構は6期に分けることができること、荒木氏時代の城は、伊丹氏の城を南及び西に拡張したものであることが判明したほか、各所で濠・石垣・土塁・建物・池・柵等の遺構が検出され、中世城郭から近世城郭への移行の輪郭の一部が明らかにされ、大きな成果をおさめた。
 さらに今回の発掘調査の過程で、近世伊丹郷町の構えは、荒木氏時代に伊丹段丘の高低差を利用して形成された総延長約2キロに及ぶ城の総構えを踏襲したものらしく、総構えを造るに際しては、各所に砦を構えて守りを固めたことが判明した。砦跡の一部は、北方の砦(猪名野神社境内一帯)、南のひよどり塚の砦等として、後世の改変を経ながらも遺存している。
 昭和54年の指定にあたっては、この城跡の総構えを形成した最終期の荒木氏時代に着目し、指定名称を有岡城跡とすることとしたが、その指定範囲は、城郭跡では国鉄伊丹駅前整備事業から除外された部分、北方の砦跡及び総構えのうち、北から西側南端に至る段丘を画する道路敷・水路敷とする。

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