野田の津久舞
のだのつくまい
概要
野田の津久舞は、須賀【すが】神社の祭礼に奉納される芸能で、舞の演じ手がツクバシラ(つく柱)と称される高い柱に登り、さまざまな曲芸的所作を演じるものである。演じ手は、野田では「ジュウジロウ」と呼ばれ、雨蛙【あまがえる】の面をつける。祭礼の期日は、本来七月十五日から十七日であったが、現在はそれに近い金曜日から日曜日となり、津久舞は中日【なかび】に行われている。須賀神社祭礼に関わるのは上町【かみちよう】、仲町【なかちよう】、下町【しもちよう】の三町であり、それぞれ輪番で「神輿年番【みこしねんばん】」「津久【つく】年番」「獅子【しし】年番」を務めている。津久舞の披露は「津久年番」を中心に行われる。
野田において、津久舞の起源は定かではないが、明治初期ころには、香具師が景気づけに、随時、柱を立てて行ったといわれている。その後、ジュウジロウの不在により中断する時期もあったが、後継者を得て、受け継がれている。
つく柱は、杉の丸柱の先端部に醤油樽をかぶせ、柱の先端部より三尺ほど下に横柱を十字につけた形状である。柱には薦【こも】を巻き、その上をサラシで覆い、白布で縛る。また、横木の先端には白布を下げ、さらにその一方には轡【くつわ】が垂らされる。柱は竜に見立てられており、雨蛙の面をつけたジュウジロウが登り、柱を上下するのは、竜が蛙を呑み込む様を表しているとされ、地元では雨乞いの意味をもつと考えられている。
津久舞当日の夕刻、ジュウジロウは、津久年番の神酒所において、雨蛙の面をつけ、白襦袢【じゆばん】に白の裁着【たつつけ】を履き、白い脚絆【きやはん】、手甲【てつこう】、足袋【たび】の出で立ちとなり、世話人衆等とともにつく柱の立つ広場まで練り込みをする。そして御神酒を吹きかけられ全身を浄【きよ】めた後、笛・太鼓で奏される囃子に調子を合わせ柱に登る。途中で逆さまになるなどの芸を見せながら頂上に達すると、醤油樽の上に立ち上がり四方に矢を射る。その後、頂上で逆立ちをするなど軽業を演じ、最後は柱から張られた白綱に腹這いとなり、頭から滑り降りる。これら一連の軽業の姿は、室町から近世初頭に見世物として流行した「蜘蛛舞【くもまい】」という曲芸に近似しており、それらが祭礼と結びついて伝承されたことをうかがわせる。
以上のように野田の津久舞は、かつて流行した曲芸が地元の祭礼と結びついて独自に伝承されてきた伝承であり、芸能の変遷の過程を知るうえで重要である。
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国指定文化財等データベース(文化庁)