徳敷墨蹟〈尺牘/円爾宛〉
とくふぼくせき
概要
円爾【えんに】(聖一国師)とその師無準師範【ふじゆんしばん】(彿鑑禅師)との交流は有名で、特に淳祐二年(一二四二)二月の径山【きんざん】罹災にあたって、円爾が再建用材を送ったことを謝した無準師範の尺牘(国宝)は、「板渡の墨蹟」として知られている。
本幅は師範会下の徳敷が円爾に宛てた尺牘で、径山罹災時における両者の交流をより具体的に伝えた遺品として注目される。差出者の徳敷は本文中に「叨冒 監寺之時」とあって、無準師範山門疏(国宝)にも「幹縁都監寺」としてその名がみえ、道号等は不詳であるが、当時径山の事務を統轄する立場にあった人物である。
冒頭に「日本承天堂和尚尊属禅師」と、当時博多承天寺にあった円爾に充てて、円爾によって日本へ齎された佛鑑の禅風の進展を喜び、自らは径山の監寺としての七年間の無沙汰を詫びている。そして回禄による径山の窮乏の様子にふれ、去年五月の径山再建のための大舟の派遣時には、平江府に赴いていたため人に託し得なかったことを詫び、能上人や謝国明等の檀越の尽力によって銭三万緡を工面したが、現在は「約借起来年夏信〓至送還」と、その返済に苦悩する心中を伝えている。ついで、円爾が送り来った千枚の材木について、五三〇片は華亭で受取って径山へ運んだが、三三〇片は未だ慶元府(寧波)にあり、残り一四〇片は未到着で、入手の早からんことを切望している。また自分に続く法類のためにも伽藍、とくに大仏宝殿と蔵殿の建立を願い、終わりに佛鑑の書信と疏頌一軸を進呈して円爾の返信を請うている。
この尺牘は唐紙の一枚紙を用いて、筆跡も佛鑑墨蹟に相通じる点も多く、徳敷の佛鑑禅師近侍の人物としての特徴を示すほか、書札の文辞も丁寧で、師範会下における円爾の地位をも併せ示して注目されるが、特に当時の博多綱首謝国明らを含む広汎な径山再建の内容を記して、日中禅林交渉史上に重要である。