加茂岩倉遺跡
かもいわくらいせき
概要
加茂岩倉遺跡は,平成8年10月農道建設の工事中に39個の多量の銅鐸が一括出土して大きな話題となった銅鐸埋納遺跡である。加茂町は島根県東部を流れる斐伊川の支流,赤川の流域の小盆地にある。遺跡は赤川の支流をさらに3.5km遡った狭長な谷の最奥部に所在し,埋納坑は谷に面した斜面の中腹,標高138m,谷底との比高18mの,見上げる位直にある。また,これより北西約3kmの位置には昭和59・60年に銅剣358本,銅鐸6個が出土した斐川町荒神谷遺跡がある。
銅鐸の発見後から平成9年度まで,島根県と加茂町の教育委員会が遺跡の確認調査を実施し,銅鐸を埋納した土坑の一部とこれに隣接する土坑1基を確認した。埋納坑の大半は工事により破壊されていたが,その一部と入れ子の状態で埋納された銅鐸2組計4個及び銅鐸3個の圧痕が残存していた。埋納坑は残存していた北西辺と埋納状況から,長辺約2血短辺約1m,深さ50cmほどの長方形の土坑と推定される。銅鐸は,その出土状況と大きさ及び数量からみて,基本的に大小一組で入れ子状に埋納
されていたと推定される。埋納状況を保った二組の銅鐸は横にして鰭を立てて,双方の下部の口を合わせて納められている。埋納坑の壁は銅鐸の上部を納めるために部分的に袋状となる。銅鐸以外に遺物はなく,埋土は薄く何層にもわたり埋められている。
銅鐸塊納坑の西側約3mの位置に隣接する土坑は,長辺2.4m,短辺1.2m,深さ約50cmの規模で,埋納坑と同様に袋状となる。出土遺物は全くない。土坑や埋土の状況は銅鐸埋納坑と共通しており,近接していることからも両者は関連するものと考えられる。
出土した銅鐸の本格的な調査は未了であるが,いずれも弥生時代中期に製作されたものである。型式はほとんど外縁付鈕式と扁平鈕式で,一部に突線鈕式に入る可能性のあるものを含む。大きさは大小2種あり,大型品は高さ45cm前後で計20個、小型品は高さ30cm前後で計19個ある。身の文様は流水文,四区袈裟襷文,六区袈裟襷文で,鋳造後鈕の頂部に荒神谷遺跡の銅剣にもみられる×印を刻したものが12個確認されている。同笵関係にある銅鐸が判明しているものは15個8組あり,その出土地は鳥取・兵庫・奈良・和歌山・福井の各県である。製作地の多くは近畿地方と考えられるが,一部のものは文様の特徴から出雲産の可能性もある。
39個の銅鐸は弥生時代中期から後期の時期に,当時の集落から離れた山中の谷斜面に掘られた土坑に-括埋納されたと考えられる。近年,銅鐸は荒神谷遺跡を含めて発掘調査による検出例がいくつか知られているが,このように多量に一括埋納された状況が把握できたのは初めてであり,銅鐸の機能や使用・廃棄の方法,銅鐸の生産と流通のあり方等を考える上できわめて重要である。よって史跡に指定し保存を図るものである。