八代城跡群
古麓城跡
麦島城跡
八代城跡
やつしろしろあとぐん
ふるふもとじょうあと
むぎしまじょうあと
やつしろじょうあと
概要
八代城跡群は,球磨川(くまがわ)河口部の八代市街地と東方の丘陵部に所在する,中世から近世にかけて熊本県南部の八代地域の支配拠点となった三つの城跡と関連遺跡である。八代は薩摩街道と球磨川水運の結節点であり,徳渕の港を有し,肥後及び九州の水陸交通の要衝であった。
古麓城(ふるふもとじょう)は,南北朝時代から戦国時代にかけて名和氏・相良氏により球磨川右岸の丘陵部に築城,整備された山城である。天正15年(1587)には九州征伐の豊臣秀吉が滞在した。麦島城(むぎしまじょう)は,古麓城に替わって小西行長が球磨川河口部の徳渕の港に隣接して築城した総石垣造りの城である。関ヶ原の戦い後は加藤清正の支城となったが,元和5年(1619)の地震で倒壊し,北側の松江に八代城(やつしろじょう)(松江城とも呼ばれる)が築かれた。その後,細川家が肥後国主となると藩主忠利(ただとし)の父・細川三斎(さんさい)(忠興(ただおき))が入城,正保3年(1646)以降は家老松井氏が城代となり,熊本城とともに肥後一国二城体制を支える城として機能した。また,加藤氏が麦島城を改修する際瓦を焼いた平山瓦窯跡,城代松井家の歴代墓所も残る。
このように,八代城跡群は,歴代の政治権力による港湾・水運の掌握の様相を窺えるともに,一地域で中・近世の城郭構造の変遷を知ることができ,関連遺跡も残っており,一体として歴史を把握できる事例として貴重である。