松代城跡
附 新御殿跡
まつしろじょうあとつけたりしんごてんあと
概要
天文22年(1533)、武田晴信(信玄)が村上義清を越後に走らせて以来、川中島の一帯は、ほぼ武田氏の領有するところとなった。晴信は、上杉景虎(謙信)の来侵に備え、また、領内諸豪の反覆を抑えるため、もと清野氏の居館跡といわれた地一帯に築城し、春日(高坂)昌信をして守らせた。これを海津城という。その築城の年代は明らかではないが、弘治3年(1556)頃工を起こし、甲越の両軍火花を散らして相争った永禄4年(1561)の川中島の戦の頃には完成したらしく、この激戦の際、海津城は武田軍の拠点となった。
天正10年(1582)、武田勝頼、天目山麓で自刃して武田氏が滅ぶと、武田氏領は織田信長の有となり、3月、信長の部将森長可、海津城に入って18万石を領したが、6月、信長が本能寺の変で明智光秀に討たれてまもなく、上杉景勝、川中島の地を収め、村上景国に海津城を守らせた。景勝の若松移封のあとを受けて、慶長3年、田丸直昌が入部、慶長5年、関ヶ原の戦ののち、徳川家康は森忠政を川中島に封じ、13万石を与えた。この時、海津城は待城と改められたと伝えられる。
慶長8年(1603)、松平忠輝、18万石を領して入部し、松城と改称したという。元和2年(1616)には、松平忠昌(12万石)が、同4年には酒井忠勝が10万石を賜って城に入ったが、元和8年、忠勝の鶴岡移封のあとを受け、真田信之が13万石に加増されて上田より松城に入封して以来、真田氏が松城を領有し、10代幸民の時、明治維新を迎えた。この間、正徳元年(1711)、3代藩主幸道の時、城の字を代と改めて松代と書くようになった。
城地は、東・南・北の三方に連山を負い、西より北に向って展開する善光寺平は、千曲川によって限られていた。惣構は、現在の松代の大部分を囲い込む壮大なもので、千曲川を背にして方形の本丸を置き、その南に百合根のように円を画く形で二ノ丸、三ノ丸が配され、三ノ丸の西には花ノ丸がつくられている。各郭は、循環する堀で囲まれている。大手口は三ノ丸の東に開き、本丸南中央の大手門(太鼓門)に通じているが、本丸には、北と東にも門枡形がある。本丸は、もと土塁で囲まれていたが、慶長4年頃、田丸直政によって石垣に改められたという。現在これらの石垣は、4つの櫓台とともにほぼ旧状をとどめているが、門枡形は改変されており、本丸を繞る堀は埋立てられている。二ノ丸・三ノ丸・花ノ丸は、鉄道敷等によって破壊されている部分が多いが、本丸の堀とともに旧形状をたどることができる。御殿は、はじめ本丸に設けられていたが明治2年、花ノ丸に移された。
また、文久3年(1867)、三ノ丸に南接する形で、城外の藩学文武学校(史跡)の東隣に御殿が新造され、新御殿と呼ばれた。この新御殿は、文久2年閏8月、参勤在府の期が緩められ、妻子の帰国が許されたのに伴い、花ノ丸の御殿は狭〓(*1)を告げたので、9代藩主幸教が母貞子(幸良未亡人、おいての方)の隠居所に充てる目的で、家老寺沢蘭渓を奉行に任じて造営させたものである。新御殿は、木造瓦葺平家建、一部2階建で、東に玄関を設けているが、玄関の南の部分は明治年間の増築で、建物全体について若干の改変のあとが認められる。新御殿の南には園池が造られているほか、土蔵3棟、付属家1棟も現存している。松代城は、戦国時代以降常に北信濃の中心として歴史の舞台に登場し、戦国から幕末まで続いた城として貴重であり、また、城外に造られた新御殿は数少ない城郭御殿建築の遺例の一つである。よって両者を一体のものとして史跡に指定する。