大坂城跡
おおさかじょうあと
概要
この地はもと石山と称せられ、明応五年蓮如はここに本願寺の別院を設け、後天文元年證如は山科から本願寺を移した。爾来本據として勢威を伸張し、織田信長と抗爭、元亀元年から天正八年に及んだが、遂に和議を結んで紀州に退去した。信長の死後、暫く池田恒興がこれを領したが、天正十一年豊臣秀吉はここをその本據とするため恒興を大垣に移し、八月より築城に着手、凡そ末年には完成された。その偉容を誇ること三十余年、慶長元和の両役によって、城は壞たれ、豊臣氏はこの城と共に滅んだ。豊臣氏の滅後、松平忠明これを領して整備に当つたが、元和五年徳川氏これを収めて直轄地となし、翌六年から諸国の大名に課して築城に着手、幕府自らもまた営造に当り、寛永七年に功を竣えた。爾後西国の鎮として重きをなし、明治維新に至って廃城となった。
城は上町台地の先端部、東に低く猫間、平野の二川を帶び、北にこの二川と淀川、寝屋川(旧大和川筋)の合流部を控えた要衝に営まれている。中央部高所に本丸を置き、天守台を構え、その北に低く山里丸を、西北に狹長な帶曲輪を配する。この一副を守って堀をめぐらし、更に二の丸を以て囲む。本丸の大手は南に開いて桜門、土橋を設け、搦手として山里丸の北端に極楽橋を架して二の丸に連る。二の丸は広大な地域で、その西部の一部を割いて西の丸を置く。
この二の丸をめぐって更に堀をめぐらし、大手、京橋口、玉造口、青屋口の四門を構え、北端部、二の丸と河川と間に低く帶状の北外曲輪を設ける。
かくして天守閣、殿館を始めとして門、櫓、塀等巌めしく輪魚の美を誇っていたが、寛文五年天守閣災上罹災後再建のことなく、万治、明治にも災害があり、且つ今次の戦災を加えて被害著るしいものがあるが、幕府の権威を以て営まれた堂々たる偉容は、一番櫓等の四櫓、大手門、多聞櫓、桜門等の遺構、著名な巨石、整斉たる石垣、深く幅の広い堀等によって十分偲び得べく、石垣上に羅列した鉄砲狹間は類例稀な観を呈する。
石山本願寺の遺構は固より明かでなく、豊臣氏時代の大坂城は本丸、二の丸、三の丸、西の丸、山里丸等よりなり、城構の資料は諸書に見えるが、その正確な布置等は詳ざなり憾がある、併し乍ら新旧両者ともその經始に相通ずる点もあるが如く、また徳川氏の大坂城の局部の名称は、夛く豊臣時代のそれを踏襲している。
その沿革を通観するに本願寺に始まり、織田、豊臣両氏を経て徳川氏に至る変遷は、国史上極めて特色ある一局面を示すものというべく、且つ遺構は近世における築城の代表的な一例であって、学術上極めて価値の高い遺跡である。