天平の面影〈藤島武二筆/油絵 麻布〉
概要
藤島武二【たけじ】は明治元年の前年に生を受け、幼少より画道を志したが、二九歳にして黒田清輝【せいき】に見出されその後継者として東京美術学校西洋画科の助教授となり、以後没するまで同校にあって日本洋画界を指導し続けた。はじめ日本画を学んだが、二三歳のとき曾山幸彦【そやまさちひこ】について洋画を学び、翌年には明治美術会会員となって同展への出品を始めているが、白馬会【はくばかい】が結成されると明治二十九年の第一回展から出品を続け、同会の中心的な存在となった。明治三十八年から四年間留学のために渡欧し「黒扇」((財)石橋財団、昭和四十四年六月二十日指定、重文)や「チョチャラ」を制作。明治四十四年白馬会解散後は、文展さらに帝展の重鎮として終生洋画壇の主流にあり、晩年は力強い風景画や装飾性の高い「耕到天」(大原美術館)等を描いている。
藤島武二の画業は明治から昭和前半期に及ぶが、「天平の面影」は作者三五歳の比較的初期の作品である。この前年から与謝野鉄幹・晶子夫妻による『明星』の表紙や挿絵を手がけるようになっていたが、藤島の「天平の面影」や「蝶」は、『明星』をはじめとして台頭していた浪漫主義の風潮を背景にした、浪漫主義絵画の代表的な成果といわれる。特に本図は、もうひとりの代表的な浪漫主義作家である青木繁に、多大な影響を与えたとされる点でも重要である。
本図は第七回白馬会展に「天平時代の面影」と題して出品され、未完成の「半双」とされていたがその後対となる作品は描かれた形跡がなく、第一〇回白馬会紀年展には「天平の面影」として一点のみ出品されている。画家は正倉院所蔵の箜篌【くご】を実見して受けた感銘をもとに画想を得たというが、女性の表現には浄瑠璃寺蔵吉祥天像や正倉院蔵鳥毛立美人図等を参考としたといい、金地を思わせる背景と細部を省略した桐などによって強調された装飾性と、さらに藤島自身の繊細な感性によって塗り重ねられた色調により、歴史画が陥りがちな重苦しさや古めかしさはなく、明快で新鮮な趣を失っていない。明治浪漫主義を代表する記念碑的な作品として重要である。