日吉ヶ丘・明石墳墓群
ひよしがおか・あけしふんぼぐん
概要
日吉ヶ丘・明石墳墓群は、京都府北部、丹後半島の南に位置し、北を除く三方を山に囲まれた加悦谷と呼ばれる盆地に立地する、弥生時代から古墳時代にかけての墳墓群である。周辺には史跡蛭子山古墳、史跡作山古墳をはじめ、同時期の墳墓及び古墳が数多く所在している。平成11年から加悦町教育委員会が町営住宅建設に先立ち日吉ヶ丘地区の事前調査を実施したところ、弥生時代中期の大規模な方形貼石墓を検出した。加悦町ではこの遺構の保存を図ることを決定し、平成14年から周辺の墳墓群の内容を確認するための発掘調査を進めてきた。
日吉ヶ丘地区の方形貼石墓は、加悦谷を流れる野田川東岸にのびる標高20m前後の丘陵末端部に所在する。規模は長辺約32m、短辺約20m、残存高は周溝の底から2m余りで、墳丘斜面上半には平らな石を貼り付けていた。上面は削平されているが、一部で盛土の存在が確認されている。方形貼石墓は、現状では石見・出雲地域と丹後地域で発掘されているが、これまで発見された中では最大規模である。埋葬施設としては墳丘中央からやや南寄りのところで組合せ式木棺1基が確認され、頭部と推定される場所では670点を越える管玉と赤色顔料を検出した。時期は出土土器から見て弥生時代中期中頃である。
明石地区は日吉ヶ丘地区の背後にある標高40から96mの丘陵上にあり、弥生時代後期末から古墳時代前期前半までの墳墓28基を確認している。近接する別の丘陵にも同様の墳墓が存在し、全体としては大規模な墳墓群が形成されていた。丹後地域では弥生時代後期になると丘陵上に墳墓が築かれるようになるが、明石地区では後期末に一辺10m前後の台状墓が築かれた。これらは丘陵上に平坦面を削り出し、遺骸の埋葬後は掘削により出てきた土で覆ったものであり、稜線上で連続して営まれたことから、外見上は階段状を呈する。庄内式期になると台状墓に加え、盛土を伴う一辺20m程度の方形・楕円形の墳丘をもつ墓や区画施設をもたない土坑墓群が出現し、このような在り方は次の布留式期にも続く。出土遺物としては、葬送儀礼の際に用いられた土器や土製模造品がある。土製模造品は関東以西の前方後円墳に認められるが、本例は最古の事例として注目される。
日吉ヶ丘地区の方形貼石墓は、これまで発見された同種の墓では最大規模であり、この地域に有力な勢力が出現していたことを示唆する。また、明石地区において弥生時代後期末に出現した台状墓は、丹後地域の弥生時代後期を特徴づける墳墓形式である。そして、庄内式期には墳墓の構成に格差が認められるようになり、布留式期においても同じ在り方が続いた。古墳時代に入っても、弥生時代以来の在地の墓制が引き継がれていたことを示す例として興味深い。日吉ヶ丘・明石墳墓群は丹後地域における弥生時代中期から古墳時代前期にかけての典型的な墳墓群であり、当該地域の墳墓群の構造や変遷、さらにはその社会を考える上で重要である。