谷重遠墓
たにしげとおのはか
概要
谷重遠は土佐の人秦山と號す。山崎闇齋、澁川春海等に從って神道経学天文暦学を学び特に国体の尊嚴を顕揚し君臣の大道を唱道してより時流に抽つるものあり幕末土佐藩の勤皇に與へし影響少からざるのみならず日本国体思想史上極めて重要なる位置を占む、其の著神代巻■土伝、保建大記打聞、秦山集等世に著はる享保3年6月30日歿す。
基は字まへやまの低夷なる丘陵にあり所在地附近を茱萸谷と称し重遠の遺言に依りて此處に営まれたりと言ふ。石塊を以て被覆せる円形の低き盛土の上に南面して自然石の墓石台石を置き墓石は高さ約1尺2寸正面中央に「谷、丹三郎重遠墓」其の左傍に「享保戊戍」右傍に「6月30日」と刻せり。