真壁城跡
まかべじょうあと
概要
真壁城は、平国香にはじまる坂東平氏、常陸大掾氏一族の真壁氏の本城である。
真壁氏の祖長幹(真壁六郎)は多気直幹の子で、平安末期に真壁郡に入部した。このおりに真壁城が築かれたとする伝承もある。以後真壁氏はこの地を基盤とする武士団として成長し、「真壁文書」「真壁長岡文書(古宇田文書)」など、多数の中世古文書を残している。
真壁氏の城が中世古文書に登場するのは南北朝期であり、興国2年(1341)12月の史料に、北畠親房の「御方城々」として、真壁城がみえている。
また応永30年(1423)には、真壁氏は室町幕府直属の京都扶持衆となっており、ためにこの年8月2日、鎌倉公方方の豪族の攻撃を受けて合戦が行われている。
こののち真壁氏は古河公方や小田氏に対する従属・連携・離反等を経ながらも、領主として存続するが、天正18年(1590)の後北条氏滅亡後は新たに常陸全体の領主となった佐竹氏の家臣となり、慶長7年(1602)の国替えに際し、真壁氏は出羽に移り、真壁城は真壁氏本宗の代々の居城としての役割を終えた。
しかし慶長11年(1606)、浅野長政が隠居分として真壁・筑波郡内に5万石を与えられ、長政はこの城を隠居所とし、その子長重の笠間移封後は寛永元年(1624)に稲葉正勝(春日局子)が1万石で入城、そして寛永5年(1628)の彼の真岡移封に伴い、真壁城は廃城となった。
城跡は筑波山系足尾山西麓の台地上、桜川沿いの平地にのぞむ高燥地にあり、本丸を中心に四重のほりをめぐらす堅固な城構えである。
本丸は標高47メートルにあり、南北100メートル、東西80~100メートル、北方の土塁に稲荷神社が祀られる。本丸を囲むほりを一のほりと仮称するが、その周囲に同心円状に二の丸と二のほりがある。
さらにその東方に小字を中城とよぶくるわがあり、さらに続いて小字を瀬戸とするくるわがある。本丸・二の丸が同心円状であるのに対し、中城・瀬戸のくるわを囲むほりは直線的であり、「折」とよぶ屈曲も多く用いられている。二の丸から中城、中城から瀬戸への通路が、この「折」の部分に設けられているのは、側射(横矢がかり)の機能を強く意識してのものである。
なお本丸の稲荷社のほか、瀬戸には鹿島社を配し城の守護神とした。瀬戸の東は北戸張とよばれるが、外郭の施設の存在をうかがわせる地名である。城の建物そのものは残っていないが、真壁城の城門を移築したとする伝承をもつものとして真壁町に隣接する大和町(薬法寺山門)と、協和町(大木義一氏宅表門)とに、薬医門が各一棟残っている。
なお今日残る真壁城の縄張(平面プラン)は、むろんこの城の最終段階を示すものである。過去昭和56年に本丸を発掘調査したことがあるが、そのおり本丸を南北に分断する深さ7メートル、上幅十数メートルのほりが検出されている。遺物としてはかわらけ、土鍋、青磁、白磁、灰釉陶器のほか、鏃・弾丸なども出土している。
このように真壁城跡は四重のほりをもつ北関東屈指の城跡であり、弧状、直線状の各種ほりを多用した巧妙な縄張は、高度な築城技術を示すものでもある。歴史的にも平安期以来戦国末期に至るまで、一貫してこの地の領主だった坂東平氏、真壁本宗家の城として重要である。よって史跡に指定し、その保存を図るものである。