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多賀城跡
 附 寺跡

たがじょうあとつけたりてらあと

概要

多賀城跡
 附 寺跡

たがじょうあとつけたりてらあと

城跡 / 東北 / 宮城県

宮城県

多賀城市市川・高崎・新西久保・西久保・金堀・五万崎・六月坂・浮島・大代・山王

指定年月日:19221012
管理団体名:多賀城市(大14・6・3)

史跡名勝天然記念物

奈良朝時代蝦夷征服ノ爲ニ築キタルモノニシテ鎭守府ヲ置キシ所ナリ丘陵ニ據リテ自然ノ形勝ヲ占メ土壘土壇及礎石等尚現存シテ略舊規ヲ見ルニ足ル遺瓦ノ散在スルモノ多シ城阯外ニ近ク寺阯アリ土壇礎石等アリテ堂塔ノ配置等略推知スルヲ得ヘシ奈良朝時代ノ瓦片多ク散在セルニ因リ其ノ多賀城築造ト同年代ノモノナルコトヲ知ルヘシ
S54-12-042[[多賀城跡附寺跡]たがじょうあとつけたりてらあと].txt: 大正2年10月12日史跡指定、昭和41年11月特別史跡指定の多賀城跡附寺跡は、再三の追加指定により現在の指定地は、概ね城跡外郭築地内と通称多賀城廃寺(あるいは高崎廃寺跡)の部分である。
 ところが、城跡外郭築地東南隅約200メートルの地にある小丘上で、昭和54年、多賀城市教育委員会による宅地化に先立つ事前発掘調査の結果、古代の掘立柱建物6棟及び中世の掘立柱建物18棟の建物遺構が発見された。このうち、古代建物跡群は、4×7間の4面廂付建物を中心に、その北の2×4間以上の建物、南の2×7間の建物が南北1列に並び、その南北方位は多賀城内郭建物の方位と一致する。他の3棟の建物跡は、中心建物の西で1棟、東で2棟発見されたが、その配列には一定の規格はない。6棟とも建て替えられた痕跡はなく、その建築時期は、出土須恵器より考え、多賀城第3期及至は第4期と考えられる。中世建物跡は、「安永風土記書上」より判断し、浮嶋太夫が居住したと伝えられる「館屋敷」に関係があるのではないかと考えられており、館屋敷造成の際、古代の地形が改変されたものと思われる。
 この遺跡は、館以前の遺跡と称されているが、古代建物跡群は、多賀城と一体的なものと判断され、昭和54年10月、この小丘一帯を追加指定する。
S51-6-026[[多賀城]たがじょう]跡附寺跡.txt: 古代、陸奥国の国府あるいは鎮守府が置かれた多賀城は、大正11年10月12日に史跡に指定され、昭和41年4月11日に特別史跡となり、その間、2度にわたり地域の追加指定を受けたが、昭和51年3月、寺跡の南側の南大門等の存在が予測される地点を追加して指定した。
S49-01-009多賀城跡附寺跡.txt: 奈良〜平安時代に陸奥国鎮守府または陸奥国府が置かれた多賀城の遺跡は、大正11年10月12日に史跡に指定され、昭和41年4月11日に特別史跡となり、その間昭和40年4月17日に一部地域の追加指定を受けたが、今回(1)昭和44年度の発掘調査により、外郭南門と南門より東西に走る[[築地]ついじ]が確認された多賀城碑(壺碑)の存する台地、(2)昭和45年度の発掘調査の結果判明した多賀城外郭の西を画する築地跡とそれより以東の外郭地域、(3)その他従来の指定地域における若干の指定もれの部分、などが追加指定される。
S41-6-050多賀城跡[[附]つけたり]寺跡.txt: 多賀城は、奈良時代-平安初頭、東北経略の基地となった所で、ここに鎮守府や[[陸奥国府]むつのこくふ]が置かれ、その後、室町時代まで、長く東北地方の軍事的、政治的中心地として重要な役割を果たした。昭和36-40年の発掘調査の結果、城跡の中央部の通称内城跡とよばれている地域と、多賀城に伴う考えられる寺跡で、類例まれな諸遺構が検出された。ことに内城跡は、[[正殿]せいでん]跡・[[後殿]こうでん]跡と4棟の[[脇殿]わきどの]跡等を備えており、朝堂院的配置をとっていることは興味深い。
S40-5-070多賀城跡.txt: 史跡多賀城跡の[[附]つけたり]として指定されている寺跡において、僧坊、東倉、中門、南大門等の跡が検出されたので、その部分を追加指定する。

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