カリアティード
かりあてぃーど
概要
カリアティード
かりあてぃーど
北イタリア、リヴォルノに生まれる。1902年、フィレンツェのスクオラ・ディ・ヌード(裸体画学校)に入学し、1903-05年は、ヴェネツィアの美術学校で学んだ。1906年にパリに出て以後、没するまで同地で暮らした。良き理解者、医師ポール・アレクサンドルを介して、絵画制作を続ける一方、彫刻家ブランクーシと親交を結び、彫刻制作にも取り組んだ。ブランクーシを通じて、原初芸術の理解を深めた。エコール・ド・パリの芸術家達が居住した「蜂の巣」(ラ・リューシュ)では、スーチンやキスリングらと交流した。しかし、プリミティヴな芸術への興味、古典芸術の技術に裏打ちされた彼の作風は、彼らとの関係の深さほどにはエコール・ド・パリの芸術家の典型とは見られず、独創的である。麻薬と酒による無節操な生活の果てに、35歳で没。 1909-14年の間、体力的および経済的理由から制作を断念するまで、彫刻に打ち込んだモディリアーニの関心は、ギリシア建築の梁を支える女人柱「カリアティード」への取り組みに顕著である。カリアティードを主題にした彫像(石彫)や油彩は数が少ないが、多くの素描が残された。縦長の画面に梁を支える仕草をした、両手を挙げたカリアティードの体躯は簡潔でプリミティヴである。杏仁形の眼、立体的な鼻、円い胸は単純であるが強い印象を与え、両腕と両足の筋肉をも感じさせる量感は、たくましく力強い生命感にあふれている。右にかしげた顔と両手足の左右不均衡が、体全体にかすかなS字を形作り、動勢あるカリアティードを表現している。石壁とみられる左右の茶色の帯の不均衡もまた、動きを生み出している。このように、当時流行のプリミティヴな彫像へのモディリアーニの関心は、絵画に専念した以降の、人物の大胆な描出にも影響を及ぼしたことがわかる。(F.M.)