鉦鼓洞主《大観》
しょうこどうしゅ《たいかん》
概要
台東区池之端の大観の旧宅(現・横山大観記念館)の客間には、かつて住んだ茨城県・五浦の崖下にあった洞窟にちなんで「鉦鼓洞」という名前がつけられている。そして、大観自身も「鉦鼓洞主」と号していた。明瞭な字体で「大観」と大きく揮毫された本作には、「龍子君の嘱に応じて」とあり、当時院展において、注目を集め始めた龍子に対する大観の期待が込められ、贈られたものと考えられる。
龍子は1928(昭和3)年に院展を脱退し、大観と袂を分かつことになったが、近江一郎は、「日本美術院の同人時代に横山大観画伯から『大観』の二字を書いて貰った半折を持っていゐるが画伯(龍子)は、それを立派な掛軸に表装し毎年一月の元旦には必ず床の間にかけて昔の知遇を偲び家族一同うち揃って屠蘇を祝ふのを毎年吉例としてゐる(※『藝術新聞』1935年9月29日の掲載記事からの引用と本文内に記載)」と、院展を脱退してからも龍子がこの書を大切に保管していたことを伝えている(『美之國』1936年1月、12巻1号)。
戦後、龍子がこのような敬慕の念を抱き続けていることを大観に知らせたのは、大塚工藝社の大塚稔であったといわれている(横川毅一郎「雪月花の巻 大観・玉堂とのゆかりの記(承前)―龍子外伝ー」『萠春』1956年9月、36号)。1950秋の展覧会シーズンに、大阪へと向かう特急「つばめ」内で、大塚によって大観と龍子は引き合わされ、長年の隔絶もなかったかのようにすぐに打ち解けた。それから2年後、兼素洞の桜井猶司の企画で、大観、玉堂、龍子の三巨匠による第1回「雪・月・花」展が開催された。
(平成27年に寄贈)