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明治38年1月23日付 渋沢栄一書簡(大橋半七郎宛)

めいじさんじゅうはちねんいちがつにじゅうさんにちづけ しぶさわえいいちしょかん おおはしはんしちろうあて

概要

明治38年1月23日付 渋沢栄一書簡(大橋半七郎宛)

めいじさんじゅうはちねんいちがつにじゅうさんにちづけ しぶさわえいいちしょかん おおはしはんしちろうあて

文書・書籍 / 明治 / 富山県

渋沢栄一  (1840~1931)

しぶさわえいいち

富山県高岡市

明治38年/1905年

紙本・墨書

〔本紙〕縦17.8㎝×横61.5㎝、〔封筒(展開時)〕19.4×14.8

1通

富山県高岡市古城1-5

(寄託資料)

 “近代日本資本主義の父”といわれる渋沢栄一(1)から、高岡共立銀行(2)の支配人・大橋半七郎(3)に宛てた書簡である。
 渋沢は自らが設立した第一国立銀行(現・みずほ銀行)の行員であった大橋を、高岡共立銀行の支配人に推薦した。渋沢から大橋宛の書簡は1881~1924年の長きにわたり、26通が知られ(4)(本史料除く)、その信頼関係がうかがえる。しかし、その中に本史料は見当たらず、新発見史料と思われる。
 内容は銀行の昨期の営業成績を褒めつつも、「積小為大」(小を積みて大と為す。何事も順というものがあり気に逸って速成を願ってはならないという戒め。渋沢が信奉した二宮尊徳の言葉)の精神で「耐忍持久」を第一とし、さらに油断のないようにと戒めている。
渋沢には『論語と算盤』(1916年)という著書がある。論語つまり倫理と、算盤つまり利益を両立させて経済を発展させるという考え方「道徳経済合一説」を説いた(5)。その渋沢の思想の一端がうかがえる書簡である。
 本史料にはヤケ、シミ、サケなどがみられる。

《注》
※1【渋沢 栄一】しぶさわ えいいち (1840~1931)
実業家。武蔵国榛沢郡血洗島(現埼玉県深谷市)の豪農の生れ。倒幕運動に参加したが,の
ち一橋家に仕え幕臣となる。1867年渡欧し新知識を吸収,維新後帰国し大蔵省に出仕,国立銀行条例制定などに活躍した。1873年退官後,第一国立銀行(のち第一勧業銀行、みずほ銀行),王子製紙,大阪紡績など500余の会社設立に関与し,朝鮮や中国への投資も企て,日本資本主義の発展に貢献した。1916年実業界を引退,以後は東京商科大学など実業教育機関の創設や各種の社会事業に尽力した。渋沢敬三は孫。
(HP「百科事典マイペディア」平凡社、2018年5月27日アクセス)
明治28年(1895)年12月に設立された株式会社高岡共立銀行の支配人の人選を頼まれた際、
第一国立銀行行員の大橋半七郎を推薦した。それ以来同行やのち合併する高岡銀行のために尽力した。大橋らに対し、「軽佻にながれず姑息に偏せず時勢に応じて改進に努めたい」、「無謀な競争を避けて共に実を挙げるよう心掛けたい」などの言葉を送った。また大正3年(1914)に高岡共立銀行が本館を新築する際、清水組(初二代は越中人。現・清水建設)を紹介した。さらに同7年(1918)6月には伏木・高岡を訪れ、銀行のほか市内の小中高等学校など多くの場所でスピーチを行っている。
(HP「公益財団法人渋沢栄一記念財団/渋沢栄一ゆかりの地/富山県/高岡共立銀行」2018年5月13日アクセス)
 
※2【高岡共立銀行】たかおかきょうりつぎんこう
北陸銀行の前身の一つ。5代・木津太郎平(1856~1903)ら13人の発起により、明治28年(1895)年12月に高岡守山町に設立された(初代頭取は東岩瀬の元廻船問屋・馬場道久)。これは同22年に高岡御馬出町に設立された、高岡銀行(正村・菅野家が中心)への対抗であった。木津や馬場は支配人の人選を第一国立銀行頭取・渋沢栄一に依頼。渋沢は同行員で高岡出張所主任の経験もある大橋半七郎を支配人に推薦した。大橋は翌年(1896)2月4日に着任、同月13日に開業となった。大橋の経営手腕は優れており、「高岡共立銀行は事実上この人によって建設されたのである」という。
大正3年(1914)、本店を新築する際、渋沢から清水組を紹介され施工を依頼した。設計は辰野金吾の弟子・田辺淳吉。「赤レンガの銀行」として親しまれている。ちなみに同行の設計には辰野金吾が監修しているとされていたが、『建築雑誌』357号(日本建築学会、1925年6月)によると「設計者 工学士 田辺淳吉/施工 清水組京都支店」と明記されており、辰野の関与は無いことが明らかとなった。
同行はのち、同9年(1920)に高岡銀行と合併、さらに昭和18年(1943)には十二銀行、富山銀行、中越銀行との合併で北陸銀行となった。本店建築物はのち、富山銀行(1954年設立の地銀)本店となり、現在も使われている。しかし、2016年8月、富山銀行と高岡市は基本協定を締結し、市所有の高岡駅前ビル跡地の一部と、富山銀行本店・本部の用地を等価交換する。また、赤レンガ棟は市に無償譲渡され、市はその保存活用に努めることとなっている。
(『高岡市史 下巻』1969、p527-530。HP「公益財団法人渋沢栄一記念財団/高岡共立銀行」、同「デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第5巻、p353-355。同「故渋沢子爵と吾が行(株式会社高岡共立銀行)」。HP「富山銀行/本部・本店ビル新築移転に係る高岡市との基本協定締結について」2016年8月1日、2018年6月13日アクセス。ブログ「建築ノスタルジア 郷愁への架け橋/富山銀行本店」2010-07-30」)

※3【大橋 半七郎】おおはし はんしちろう (1853~1934)
実業家。今の島根県出身。大橋幸三郎4男、孫六郎弟。第一国立銀行行員として、朝鮮の釜山浦支店主任、高岡出張所主任などを歴任。渋沢栄一の推薦を受け、明治28年(1895)年12月、新たに設立された株式会社高岡共立銀行の支配人となる(のち監査、常務取締役、専務取締役)。市内定塚町108番地に居住した。のち大正9年(1920)、高岡共立銀行は高岡銀行と合併した際には高岡銀行の常務取締役、同13年8月、取締役となる。また、高岡理化学工業、越中倉庫の各監査も務めた。
妻けい(1863年生)は東京士族・服部国禄姉。養子・悌(1882年生)は第一銀行の各支店長を経て、渋沢倉庫監査。
(HP「近代名士家系大観/大橋半七郎 -澁澤系企業家-」2018年5月27日アクセス、『渋沢栄一伝記資料』2編、第5巻、p.353-360)

※4 HP「公益財団法人渋沢栄一記念財団/デジタル版『渋沢栄一伝記資料』」(2018年6月8日アクセス)によると25通が確認でき、その他、当館蔵の年未詳(1881~82年頃)3月26日付 渋沢栄一書簡(大橋半七郎宛)がある。

※5 HP「中小企業の一位つくり ランチェスター戦略経営なら 株式会社フォスターワン/論語と算盤(そろばん)とは」2018年6月13日アクセス

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【釈文】
〔封筒〕
(表)
越中 高岡
高岡共立銀行内
大橋半七郎様渋沢栄一
拝答

(裏)
明治三十八年
      一月廿三日

〔本文〕
客旅御発後之貴翰ハ老生一月初旬大磯へ旅行中落手拝見仕候、爾来賢台益御清適奉賀候、老生引続き別条無之、日々勤務罷在候、御省念可被下候、
貴行昨季之御営業も御丹精之結果、恰好之御成蹟ニ相成候事と御悦上候、実ニ銀行事業ハ積小為大之精神ニて耐忍持久を第一と存候間、此上とも御油断無之様奉祈候、乍憚重役諸君へも其意宜敷御伝声可被下候、御故行上ニ而毎ニ来示拝承仕候、尚本店ニも話し合可成御便利□候様可存と仕候、右之段拝答まて、匆々、如此御座候、不宣
  一月廿三日
    渋沢栄一

大橋半七郎様
    拝答

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