高田屋嘉兵衛書状
たかだやかへえしょじょう
概要
18世紀に入るとロシア船が千島列島を南下し、日本近海に姿を現すようになります。日露間の緊張が高まる中、文化8年(1811)測量のためにクナシリ島に上陸したロシア艦長ゴロウニンらが幕府役人に捕らえられ、箱館に監禁される事件が起こります。この書状は、翌年8月に高田屋嘉兵衛が報復としてクナシリ島沖で捕らえられた際に、弟たちに書いた手紙です。両国の確執を調停しようとする強い意気がうかがえます。嘉兵衛の尽力が功を奏し、ゴロウニンらは翌年釈放されます。嘉兵衛(1769-1827)は、明和6年(1769)淡路国津名郡都志本村(現兵庫県洲本市五色町)に生まれ、兵庫津に出て廻船業者となり、蝦夷地との交易で活躍しました。寛政11年(1799)にはエトロフ島航路を確定するなど、幕府の蝦夷地経営に深く関わりました。晩年は郷里で港湾修築などに寄与し、同地で亡くなりました。
【近世の神戸】