常石車
とこいしぐるま
概要
常石車
とこいしぐるま
明治後期/1911
常石車は知多型と呼ばれる二層構造である。車輪は内輪式で、平成20年には「波に縞海老」絵柄のゴマ隠しを新調し、安全確保に努めている。主な装飾として脇障子の恵比寿大黒の彫刻がある。後に制作された壇箱の五福神と合わせて「七福神」となるが、脇障子と壇箱を合わせての七福神はこの近辺では常石車のみである。彫刻、水引幕等の装飾品に縞海老を取り上げたものが多数ある。
上山を上げた状態:5.97m
上山を下げた状態:5.11m
幅2.23m
全長(梶棒)5.40m
台輪3.56m
車輪(前)0.9m(後)0.88m
重量3.21t
1台
常滑市指定
指定年月日:20180314
現在の常石車は奥条区によって受け継がれてきた山車である。常石神社の祭礼で曳き出されている。
祭礼の始まりは明治38年日露戦争の戦勝祝いとして凱旋祭りを行ったことに由来している。
町内6字が夫々花車を作ったり、字の祭りで所有していた山車で参加した。当初は陸軍記念日の3月10日が祭礼日にされ、白山(旧常滑高校東側)には戦死者を慰霊する忠魂碑が立てられ、慰霊祭が行われた。白山神社に山車を曳き上げた話も残っている。明治末期には祭礼日が4月3日となり、招魂祭に合わせて神明社、常石神社の例祭を行うようになる。大正末期には祭礼日が2日間となり、4月14日を神明社・常石神社の例祭、翌15日を招魂祭とした。その後、支那事変、太平洋戦争終結後の昭和22年、祭礼が再開されるが、4月14日を神明社、翌15日を常石神社の例祭とし、招魂祭は10月23日とした。昭和49年より祭礼日を4月第2土・日曜とし現在に至っている。
奥条区
有形民俗文化財
明治44年に常滑町奥条組の総代榊原浅吉が阿久比村宮津の大工岡戸峯次郎に依頼し、翌明治45年に建造された。山車建造契約書である「取為替契約證書」が残っており、その文面に建造費金七百五十円と記載されている。彫刻にも明治45年との裏書きがあり、製造年の裏付けができる。
それまでは簡素な花車であったが、常滑町において知多型と呼ばれる本格的な白木彫刻の山車を新造したのは常石車が最初である。常滑町の祭礼の始まりは、明治38年日露戦争の戦勝祝いとして常滑町が凱旋祭を行った事に由来する。町内6字が花車を作ったり、字の祭りで所有していた山車で参加した。その後、明治末期には招魂祭に合わせて神明社・常石神社の例祭が行われるようになり、戦後、神明社・常石神社の例祭と招魂祭が別に開催されるようになった。