周茂叔愛蓮図
概要
菊といえば思い出すのはだれか。いうまでもなく陶淵明である。ならば蓮は、といわれてたちどころに周茂叔と答えられる人は、めったにいないだろう。けれども、江戸時代の日本人はそうではなかった。
たとえば、森鴎外の「渋江抽斎」を開いてみると、鴎外が敬愛してやまないこの人物の最大の気晴らしは芝居を見ることだったとして、さらにこういっている。
「それも同好の人々と一緒に平土間を買って行くことに極めてゐた。此連中を周茂叔連と称えたのは、廉を愛すると云ふ意味であつたさうである」
これは見巧者の天井桟敷ならぬ、できるだけ安い(廉価の)席を好んだ「愛廉」と、周茂叔という中国宋代の碩学がこよなく蓮を好んだ「愛蓮」のレンとレンを通じさせてシャレたもので、要するに「蓮は花の君子なり」という「愛蓮説」まで書いている周茂叔と蓮の組み合わせは江戸人の教養の最もポピュラーな部分だったということが分かる。
単なる芝居好きを大知識人に見立てる。あるいは逆に、「太極図説」を著した儒学者の権威を肩をすかしていなす。その精神はまた、絵画において蕭白がねらったところに通じている。漢字で書いたしかつめらしさを下世話なひらがなに砕いて、見る人をニヤリとさせれば成功だとするその一種の冗談が分からなくなったとき、蕭白の周茂叔はただ視線の定まらぬ「狂」のレッテルをはられて流通してしまう。(東俊郎)