藤原宮跡
ふじわらきゅうせき
概要
藤原宮は持統天皇、文武天皇及元明天皇の皇居にして持統天皇八年十二月飛鳥淨御原宮より此の宮に遷らせられ文武天皇の御代を經て元明天皇和銅三年三月平城宮に遷らせ給ふ迄御三代約十五年三箇月ましませり、此の宮阯の位置規模に付ては古来定説存せざりしが最近鴨公村の内に於いて平城宮の朝堂院阯と殆ど同様の配置を爲せる朝堂院阯発見せられ■に藤原宮の所在は確定せられ又其の主要部の一たる朝堂院阯の規模闡明せらるるに至れり。
地は北に耳成山を■へ東は天香具山に近く西南方稍遠く畝傍山を望みて三山鼎立せる内に位し萬葉集の藤原宮御井歌に詠ぜられたる藤原宮の地形に適へり。
朝堂院阯は東西約百三十間、南北三百二十八間余に亙る廣汎なる地域を占むるものにして其の規模は北端部中央に南面して位する七間四間の大極殿あり、其の四周には廻廊を廻らし東西両廻廊中に南北に長き各々一棟の殿堂、大極殿を中心として東西に相對し南廻廊の中央部に門を開き又北廻廊の中央部にも建築物の遺構を存す而して南廻廊は東及西に延びて夫々南折、延長百七十六間余にして内側に矩折し長方形の一區劃を形成して其の南廻廊中央部に門を開く内部に十二棟の朝堂あり即ち中央部に廣場を設けて其の東西兩側に夫々南北に長き四棟の朝堂を南北に連れ又地域の南端部には東西に長き四棟の朝堂ありて東西に各々二棟宛南北に並列せり此の朝堂の区域の南に接し朝集殿の一劃ありてまた廻廊に圍繞せられ南廻廊中央部に門を開き南北に長き朝集殿東西に相對す。
此等の殿堂、廻廊及門等の阯は殆ど總て地下に埋没せるも其の基壇、礎石及栗石等遺存して舊規模極めてよく察せらるのみならず大極殿は今に土壇(俗称大宮堂)を止め地下に栗石存して舊觀を偲ばしむるものあり、又朝集殿南廻廊の東南部に近く掘立柱一基檢出せられ旦地域には各所に所謂白鳳時代の特色を示せる古瓦等出土せり、本朝堂院阯の規模は平城宮の朝堂院阯より廣大にして其の殿堂の宏壯なる配置の整然たるは雄澤なる皇謨の一端を今に顯示するものとして貴重なるのみならず又目下の處條坊都制に基く宮阯の遺蹟として国史上價値極めて高し。
藤原宮は持統天皇八年十二月から和銅三年三月平城京に遷るまで、持統天皇、文武天皇及び元明天皇の三代にわたる皇居である。大宝元年頃皇居及び都城が拡張されたようで、その経緯はなお詳でない憾があるが、目下のところ、宮に関する唯一の遺跡として朝堂院跡が存する。地は大和三山の■立する内にあって萬葉集藤原宮御井歌の情景にかない。東西両側面に殿堂を伴う7間4間の大極殿は南面してその前面に12棟楝の朝堂、2棟の朝集殿を配し、廻廊はこれらの殿堂を囲んで所々に門を開いている。遺構は今殆どすべて地下に埋れてをり概ね栗石を見るのみで稀に礎石、基壇覆石が存するだけであるがそれらは建物の規模配置を示すに十分であるばかりでなく大極殿は大宮堂と称せられる土壇をとどめ全域にわたって古瓦またおびただしく出土して整然たる配置をなす宏壯なる殿堂を想定するに難くなく、條坊都制に基く皇居の最初の遺跡として学術上の価値が極めて高い。
S55-05-027藤原宮跡.txt: 藤原宮跡については、奈良国立文化財研究所によって、昭和52年に大極殿跡の北側地区を、昭和53年に東面大垣北門地区を発掘調査し、前者においては大極殿を囲む北回廊の一部を、後者においては東面大垣・北門・内濠及び外濠等を検出し、従来の諸成果ともあわせ、諸種の新知見を得ることができたと同時に、内裏地区周辺の整備も進捗を見るに至った。今回は、今後の調査・整備を進める上で必要な、前回追加指定をしたいわゆる50ヘクタール地区の残部を追加指定する。
S51-12-022[[藤原宮跡]ふじわらきゆうせき].txt: 昭和21年11月21日史跡指定され、昭和27年3月29日特別史跡指定された藤原宮跡については、昭和41年から昭和43年まで奈良県教育委員会が、また昭和44年から奈良国立文化財研究所が発掘調査した結果、藤原宮の宮殿が100ヘクタールの正方形に近いものであることが推定されるに至り、さらに南門跡及び南限が確認され、大極殿廻廊東部地区では、礎石建物や玉石池を含む庭園遺構が発見された。このほか西方官衙諸遺構の検出、北面中門跡とその東西に取りつく北面大垣の発見など大きな成果があげられて来た。
よって昭和51年12月、特に多量の木簡の出土や北面中門跡・礎石建物及び庭園遺構等の検出を見た内裏地区を中心に既指定地の北方部分を追加指定した。