披雲閣庭園
ひうんかくていえん
概要
玉藻城の異称で知られる讃岐の高松城は、瀬戸内海に臨んで築かれた海城である。天正16年(1588)に生駒氏により築城されたが、寛永19年(1642)に松平氏の居城となり、寛文年間(1661〜1673)から延宝年間(1674〜1681)にかけての大改修を経て完成した。明治維新の後は老朽化した多くの建築が取り壊されたが、大正3〜6年(1914〜1917)に第12代当主の松平賴壽(1874〜1944)が、かつて三の丸に存在した藩主御殿の跡地に、新たな迎賓施設として現在見る披雲閣の建築及び庭園を造営した。幕藩時代の旧藩主が近代以降の城跡に造庭した大規模な庭園は、披雲閣庭園をおいて他に類例がない。
披雲閣庭園は大きく4つの部分から成る。第1は三の丸の正門であった桜御門跡から表玄関へと至る導入部、第2は大書院と「蘇鉄の間」との間の庭園、第3は各建築群とそれらを結ぶ廊下によって囲まれた4つの壺庭、そして第4は大書院、「槙の間」(2階は「波の間」)、「松の間」、「藤の間」の北側に広がる主庭である。
第二次世界大戦の戦火により焼失した桜御門跡から表玄関へと至る現在の導入部には、中央の植栽樹木及び庭石の廻りに園路が周回し、披雲閣の表玄関及びその左右に連続する建築・塀に沿って樹木が植えられるなど庭園的な修景が行われている。しかし、作庭当時に撮影された写真からは、樹木植栽を伴わない砂利を敷き詰めただけの空間であったことが知られる。
表玄関を入って左手の「蘇鉄の間」に至ると、北側の大書院を背景として、緩やかに盛り上がりを見せる2つの築山とその上に叢生する豊かな株立ちの一群のソテツから成る比較的小規模な壺庭風の庭園が広がる。複数の柱と長押、縁先に縁取られたソテツの庭の風景は、一幅の絵画のようである。建築とそれらを結ぶ廊下によって囲まれた他の4つの壺庭にも、それぞれ樹木と岩石を用いた枯山水が意匠されている。
大書院から「槙の間」、「松の間」、「藤の間」にかけての北側には、広々とした主庭園が広がる。敷地の北東隅部の築山付近から発した枯流れが、「槙の間」及び大書院の北側の築山の前面を斜めに横切り、敷地の西端へと延びる。各々の座敷縁先の沓脱石に端を発する飛石の園路は、合流と分岐を繰り返しつつ、枯流れに沿って蛇行するもの、枯流れに架かる石橋を経て築山の背後へと誘うものなど、複雑かつ縦横に広がる。それらの多くは、讃岐地方特産の庵治石と呼ぶ細粒黒雲母花崗岩の巨大な石材から成り、表玄関脇の板塀に開く門から蘇鉄の間及び大書院の西側を経て敷地北西部の出入口へと延びる長い飛石の園路を含め、この庭園の空間構成及び材料の特質を語る重要な要素となっている。
庭園の随所には、巨大な石材を用いた燈籠・手水鉢・石橋・井戸枠など眼を惹く多様な石造の景物が配置されている。特に、大書院の西北隅の縁先に設えられた銀閣寺型手水鉢は、他に類例を見ないほどの規模を誇るほか、枯流れに架かる2つの石橋のうち、上流の石橋は昭和3年(1928)に高松城跡において開催された全国産業博覧会の展示品を移設したもので、大型の庵治石から彫り出した石造品として貴重である。
また、「槙の間」の階上に当たる「波の間」からは、マツを主体とする豊かな庭園樹の背景に、月見櫓・続櫓・水手御門から成る城郭建造物を望むことができる。
以上のように、披雲閣庭園は、大正12年間に旧讃岐高松藩主松平氏第代当主の松平賴壽が高松城三の丸跡に迎賓施設として造営した庭園であり、近代以降になって近世城跡に作庭された大規模な庭園の希少な事例である。地元産の大きな庵治石を多用し、燈籠・手水鉢などの景物にも大規模なものを使うなど、大正時代の庭園に共通の特質を示す事例としても重要であり、マツ・ソテツなどの豊かな庭園樹の背景に、城郭建造物を望む意匠・構成も優れている。その芸術上の価値は高く、よって名勝に指定し保護しようとするものである。