尾張国分寺跡
おわりこくぶんじあと
概要
尾張国分寺跡は,愛知県西部,稲沢市矢合町(やわせちょう)に所在し,三宅(みやけ)川左岸の標高3.0~3.8mの自然堤防上に立地する古代寺院跡である。
14次に及ぶ発掘調査の結果,金堂,塔,講堂,回廊などの遺構が確認され,金堂,講堂,南門(なんもん)が一直線に並び,塔を回廊の東側に置く伽藍配置を採ることなど,伽藍(がらん)中枢部の規模がほぼ判明した。
『続日本紀(しょくにほんぎ)』によると,尾張国分寺は天平勝宝(てんぴょうしょうほう)元年(749)には,少なくとも着工されており,宝亀(ほうき)6年(775)には,暴風雨により罹災,『日本紀略』元慶(がんぎょう)8年(884)に火災により焼損したことを受けて,愛智郡(あいちぐん)定額寺願興寺(じょうがくじがんごうじ)を国分金光明寺(こくぶんこんこうみょうじ)とするという勅令が出されている。
尾張国分寺跡は伽藍中枢部及び寺域の範囲が判明し,特に金堂・塔などの遺構の残存状況は良好である。また,『続日本紀』などの史料の記載と発掘調査の成果が合致するなど,その変遷(へんせん)を考古学・文献史学の双方から知ることができる。国分寺造営の実態や,古代尾張国(おわりのくに)の政治情勢を示す上でも貴重である。