〔三条実美四字額〕(「山色栢懐」)
概要
(1)明治3年、前島密が駅逓権正として新式郵便創業の建議後欧米出張し、翌年8月帰国した後に、鮫島誠蔵(尚信)と塩田三郎に宛てた欧米出張後の帰朝報告である。この中には、前島の駅逓頭就任は、郵便創業時の前島密が日本の郵便制度の基礎を築くべく自薦で駅逓頭となった事実や欧米の近代郵便制度を全国に実施する考えや、横浜郵便役所を開設して外国あての外交文書や留学生等の信書が取り扱えるようにしたいなどを大蔵省罫紙5枚に詳細に述べている。また、大久保利通、井上馨、大隈重信、伊藤博文など明治の元勲といわれる人々の明治4年における人事のエピソードも記されている。(2)大阪、名古屋両号に関する三菱会社との交渉についての報告書簡である。この書簡の概要は、「内務卿の承認を得て大蔵卿へ商議で申し出ているが、三菱会社(岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社、今日の日本郵船会社)へ5万円を1年間無利息で貸すようになっているが、返済が無理なようである。この事は、同卿より同社長へ説明をしているが、大金であることから秘密にしておきたい。ニ・三日中にはどうするか決めたい。この内容は、芦柄閣下に報告申し上げるので、今しばらく待って欲しい。」と記されている。三菱会社は、明治5年日本帝国郵便蒸気船会社を発足させたが失敗、明治8年大久保利通は、前島密の建言によって、画期的な海運政策を建て、岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社を補助して、その政策を進めることとなった経緯があることから、この書簡はこの海運政策の一端が窺えるものである。