多田銀銅山遺跡
ただぎんどうざんいせき
概要
大阪平野中心部から北約20km,十数km四方の範囲に所在する銀銅鉱石の採掘から製錬を行った遺跡。平安時代末期に採掘が開始され,昭和48年(1973)の閉山までの間,採掘の場所や規模及び主体者を変えながらも,ほぼ継続的に銀・銅の採掘が行われた。寛文元年(1661)には幕府の直山(じきやま)となり,銀山地区に代官所と4つの番所が置かれ,鉱山の管理が行われた。寛文4年(1664)には銀3600貫目,銅75万斤を産出し,「銀山三千軒」といわれるほどの賑わいを見せた。また,大坂などの都市に近接する鉱山として最先端の製錬技術が採用され,その技術は生野(いくの)銀山にも伝えられた。
豊富に残されている史料や複数の絵図からは,代官所や番所などの諸施設の構成や鉱石の採掘を行った間歩(まぶ)の分布状況だけではなく,銀,銅の採掘から製錬に至るまでの技術が判明している。また,代官所などの施設の遺構,間歩などの採掘遺構,焼窯(やきがま)などの製錬関係の遺構も良好な状態で遺存している。江戸から明治時代に至るまでの鉱山の在り方や産業技術史を考える上でも重要である。最盛期における生産の中心であり,かつ鉱山全体の管理を行っていた銀山地区のうち,条件の整った範囲を史跡に指定する。