志布志麓庭園
天水氏庭園
平山氏庭園
福山氏庭園
しぶしふもとていえん
あまみずしていえん
ひらやましていえん
ふくやましていえん
概要
大隅半島の基部に位置する志布志は、太平洋・志布志湾へと注ぐ前川の河口付近に 形成された城下町である。中世に築造された志布志城は、内城・松尾城・高城・新城など複数の城郭から成る山城で、前川の北岸に迫るシラス台地に解析谷が形成した複数の支稜線の先端部に位置する。江戸時代になると、島津藩主は領内の約110ヶ所に「麓」と呼ばれる武士団の集住地を設けたが、そのうちの一つである「志布志麓」は、隣藩との境界に位置する海陸交通の要衝として藩内でも有数の規模を誇った。志布志麓の武家屋敷地は、中世志布志城の直下の谷筋に拓かれた「馬場」と呼ばれる街路沿いに帯状に展開している。近世の武家屋敷や寺院に起源し、さらに近代以降に手を加えられつつ継承された多くの住宅庭園が残されており、特に天水氏庭園・平山氏庭園・福山氏庭園は独特の地形を活かして造られた志布志麓庭園の特質を表す代表的な事例として傑出している。
天水氏庭園は、中心の街路である「沢目記馬場」の奥部に当たり、街路が2方向に分岐する地点の高所に位置する。門を含む導入部の通路は、溶結凝灰岩から成る岩盤を矩折れに削り取って造られている。登り勾配に合わせて設けられた石段を登ると、明治中期の建造とされる主屋の玄関に至るまで、築山と石組を中心とする枯山水庭園が連続する。主庭は石段を登り切った右手の石製庭門の奥に展開し、主屋の座敷に東南面する枯山水の庭園である。岩盤の露頭に沿って造成した築山の中央付近には巨石を立てて枯滝を表現し、その背景には山岳を象ってツバキ・アラカシ・サザンカなどの常緑広葉樹が植えられている。変化に富んだ地形を活かしつつ、導入部から主屋及び庭園へと至る視覚的な連続性を調和よく構成するところに特質が見られる。
平山氏庭園は、武家屋敷地の入り口に近く、「沢目記馬場」と今一つの街路である「西谷馬場」が分岐する地点の東に位置する。江戸時代初期にはこの地に石峯寺が存在したが、明治時代の廃仏毀釈により廃寺となった後に住宅へと転換したとされ、現在の庭園は住宅主屋の背面に展開する。東から迫る傾斜地とその基部に広がる大規模な岩盤を数段に削り取って造られた枯山水の庭園で、荒々しい様相と立体感に満ちた独特の意匠・構造を持つ。切り立った岩盤の中ほどは岩窟を形成し、その下段の岩盤斜面には月の姿を象った直径30cm、深さ約2cmの円形の穴が彫られているのをはじめ、南の築山の上方には多宝塔を象った石塔形燈籠が据えられているなど、寺院に淵 源するこの庭園の性質が窺える。
平山氏庭園の東の高所は、島津藩が志布志における物流・貿易の政庁として地頭仮屋 を置いた場所で、その東北に接して福山氏庭園が位置する。文政10年(1827)に建造された藩政時代の麓における最上級家臣の武家屋敷で、建物・庭園の配置構造がほぼ完全な形で残されている。導入路から虎口を経て正面の腕木門を入ると左手に石造の庭門があり、その内側が主屋に南面する庭園となっている。西からの傾斜地形 に連続して庭園の南端に築山を築き、その裾部及び鞍部の随所に景石を配置する。主屋と築山との間は広い平場となっており、その西端近くには、縁辺部に湾曲する意匠を施した溶結凝灰岩製の水盤が置かれている。庭園は、観賞の対象とされたのみならず、武芸の鍛錬場としても使われたもののようである。
以上のように、志布志麓庭園のうち天水氏庭園・平山氏庭園・福山氏庭園は、近世の志布志麓における武家屋敷及び寺院の地割を基盤として、近代以降に手を加えられつつ継承された独特の風趣を伝える一群の住宅庭園で、特に意匠又は構造面において志布志麓庭園の特徴となる立地及び造形をよく遺していると考えられる。その芸術上・観賞上の価値は高く、名勝に指定して保護を確実にしようとするものである。