安田城跡
やすだじょうあと
概要
安田城跡は神通川の支流井田川の氾濫低湿地を防禦に利用した戦国末期の平城遺構である。大字安田字殿町割にあり井田川左岸の微高地上にある。旧飛騨街道に面した大門という屋号の家のあった場所より大門道と呼ばれる道が城内に通じている。安田城の占地はこの陸上交通と井田川の河川交通をも重視したものである。
昭和52・53年圃場整備事業との関連で富山県埋蔵文化財センターが試掘調査を行った結果、堀、土橋の遺構が検出され、金沢市立図書館に残る安田城古図に合致する遺構が残っていることが確認された。即ち古図には3つの曲輪が記されているが、それは現在大城、小城、鐘突堂と呼ばれる地域に微高地として残っている(鐘突堂は削平が著しい)。中世には本丸、二の丸という呼称より大城、小城という呼称を用いる場合があったこと、また鐘突堂のように城郭間の連絡機能がよくわかる。他に孫左屋敷、塀廻、堀という地名もある。
『越登賀三州志』によれば天正13(1585)年豊臣秀吉は越中攻の際、富山城の佐々成政を攻撃する前進基地として呉服山陣城即ち白鳥城にあった前田氏の部将岡島一吉をこの城に移している。岡島一吉は天正18(1588)年に安田城大門に隣接する中堂寺に田畑を寄進しており(中堂寺文書写)、佐々氏降服後も安田城が恒常的に使用されたと考えられる。また『越登賀三州志』は天正7(1579)年以降しばしば文献に登場する安城を安田城のこととしている。佐々氏時代よりの城ということになるが、安城即ち安田城であるかはなお検討を要する。
戦国時代の平城は近世以来の耕作や、昨今の圃場整備・宅造によって失われたものが多い。そのような事情を考慮し、比較的よく遺構の残る安田城跡を指定し保存をはかるものである。