賀来飛霞植物写生図 楊梅図ほか
かくひかしょくぶつしゃせいず ようばいずほか
概要
豊後高田(現大分県豊後高田市)生まれの本草学者、賀来飛霞の描いた植物写生図。飛霞は、文化13年(1816)島原藩の藩医であった賀来有軒の三男として生まれ、5歳~13歳まで日出藩の帆足万里の門に入り、この間に本草学に必要な絵の手ほどきを杵築藩の画人十市石谷に受けている。天保5年(1834)18歳のときに京都へ行き、同地の本草学者山本亡羊に師事し、以後本格的に本草学の研究を行った。採薬のため各地を歩き、その成果を「湯布嶽採薬記」・「日光採薬記」・「高千穂採薬記」・「島原採薬記」・「救荒本草略説」など多くの書物に著した。明治11年に東京大学理学部員外教授の伊藤圭介の招きで上京し、東京大学小石川植物園取調係として勤務。同15年には東京植物学会(のちの日本植物学会)の創設にも関わっている。明治19年に職を辞し、同21年に郷里の佐田(現大分県宇佐市安心院町)に帰り、「百花山荘」と名づけた自宅で明治27年に78歳で亡くなった。飛霞の描いた植物図は、色彩をはじめ、花弁や種子の構造、葉脈や幹・根の形態にいたるまで詳細に観察し図示されており、科学的に高いの内容のものといわれている。