瞑想氏
概要
大正から昭和初期にかけて、日本版画協会展を中心に活躍した版画家、谷中安規の作品は、その劇的な生涯を抜きにして語ることはできないだろう。
出世作となった、内田百閒の童話『王様の背中』(昭和九年)の挿し絵以後、彼は多くの雑誌や書籍の装丁などを手がけているが、常に孤独や貧困と闘わねばならなかった。六歳で母と死別し、父の再婚に苦しみ、実らぬ恋を胸に秘めながら、失意のうちに友人の家を転々とする安規は、風来坊を自称していた。生涯その習癖は変わらなかったようで、百閒は安規に風船画伯というあだ名をつけている。
「瞑想氏」には右上に、安規の版画によく登場するモチーフである空飛ぶ汽車が描かれ、その下、歯車の見える望遠鏡を覗く目が不気味に光っている。その不思議な天文台の前に沈思して立つ男は、やはり安規自身ではなかろうか。彼の版画には、思いを寄せた少女と自分が頻繁に登場しているからだ。
安規の友人には詩人の日夏耿之介(ひなつ・こうのすけ)や佐藤春夫がいたが、佐藤春夫は安規に挿し絵を依頼した自らの本の序文で、「もし、この本が後世に残るなら、それは安規の絵のためであろう」と称賛している。昭和二十一年九月、敗戦後の焼け跡が残る東京の掘っ立て小屋のなかで、安規は死んでいた。それは、栄養失調による死、つまり餓死であった。(荒屋鋪透)