岡部次郎像
概要
東京美術学校西洋画科の助教授であった岡田三郎助は、明治30年〈1897年〉フランスに留学している。洋画家としては初めての文部省派遺の留学生である。パリに着くと間もなく岡田は、黒田清輝が推薦した画家ラファエル・コランの門を叩いた。コランは19世紀末のサロン絵画の特徴である、折衷様式で官能的な裸婦像を描くことを得意とした外光派の画家である。岡田は師コランの影響を強く受け、その技法を忠実に守った日本の弟子のひとりである。パリで制作されたこの作品のモデル、岡部次郎(1864-1925)は、外務省翻訳局から北海タイムス主筆などを経て、後に衆議院議員となった人物であるが、この絵が制作された頃は、シカゴ大学出身キリスト教宣教師であり、ハワイに在住していた。岡部が布教活動をしていた当時のハワイは、王政から共和制を経て、アメリカ合衆国に合併されるという政治上の動乱期で、岡部自身も義勇軍の一兵士として革命に参加した。ハワイがアメリカと併合条約に調印し、合衆国の上院が条約を批准したのは、折りしもこの肖像画が描かれた直後の1898年7月のことであるから、書斎で新聞に目を通す岡部の顔は、彼の第二の祖国ハワイのゆくすえを思い考え深げである。画家は窓から差し込む光をうけた。その青年宣教師の一瞬の表情を巧みにととらえている。(荒屋鋪透)