再度公園・再度山永久植生保存地・神戸外国人墓地
ふたたびこうえん・ふたたびさんえいきゅうしょくせいほぞんち・こうべがいこくじんぼち
概要
再度公園は、昭和12年(1937)に開設された森林・人造池を中心とする都市公園である。東西に長く延びる狭隘な土地に発達した港町神戸にとって、背後に迫る六甲山地は豊かな木材供給の資源であるとともに、都市生活上の休養・行楽の機能を持つ重要な自然環境地域でもあった。
幕末の開港以来、市街地の拡大に伴って建築資材及び薪炭材の需要が高まり、六甲山は樹木の乱伐によって次第に荒廃していった。そのため、明治35年(1902)から再度山を含む約600haの山域において、石垣の造成により山腹工が施され、風致木を含め20数種類にも及ぶ多様な樹種により緑化事業が開始された。これは、六甲山域における最初の植生再生事業であった。その後、都市生活における衛生環境の改善のために上水道を確保し、大量の降雨の際に土砂災害を防止することが必要となったため、貯水池として修法ヶ原の池が整備され、現在の再度公園の祖形が形成された。
再度公園は、居留外国人のみならず広く神戸市民にとって、市街地にほど近い豊かな自然環境の下に、登山・ハイキング・クロスカントリーなどを楽しめる森林の公園として長く親しまれてきた。また、再度山を中心とする植林地は、六甲山域において最初の緑化事業が行われた記念的な意義を持つことから、神戸市が「永久植生保存地」として適切な管理に努めてきた。
公園の北半部を占める外国人墓地は、徳川幕府により外国人居留地の隣接地に開設された小野浜外人墓地が明治時代後期に飽和状態となり、続いて開設された春日野外人墓地も狭隘となったことから、昭和12年(1937)より新たに外国人のための公園墓地として造成が開始されたものである。第二次世界大戦が激化した昭和16年(1941)から戦後の混乱期にかけて造成工事は中断されたが、昭和26年に再開され、翌年に完成した。小野浜及び春日野の両外人墓地からの移転統合が完了したのは昭和36年(1961)であったが、移転に当たっては、両外人墓地を地区別に配置し、それぞれに存在した墓碑・慰霊碑のみならず、門・柵・車止め・橋に至るまで移転前の形姿を損なうことなく移設された。
以上のように、再度公園・再度山永久植生保存地・神戸外国人墓地は、保健・休養の場である都市公園としてのみならず、六甲山域における最初の植生再生地や居留外国人の墓園としても公園史上の価値は高く、その風致に富んだ優秀な景趣及び設計思想には高い芸術上又は観賞上の価値が認められる。再度公園及び再度山永久植生保存地の区域をはじめ、外国人墓地のうち明治初年の堺事件により死亡した11名のフランス人水兵の墓域、及び身寄りのない外国人墓所として神戸市が整備した墓域その他の記念碑などを含め、名勝に指定して確実な保護を図ろうとするものである。