篠山城跡
ささやまじょうあと
概要
慶長13年、松平康重は丹波八上城に移り、翌14年徳川家康の命によつて新たに篠山に築城、諸大名その工を助け、9月その功を終えた。松平氏は元和5年岸和田に移り、松平(藤井)、松平(形原)両氏を経て、寛延元年青山氏ここに封ぜられ、明治維新に至った。
城は篠山盆地の平野中に独立する丘陵に営まれた平山城であって、さして高くはないが、盆地の一隅の高山に営まれた八上城を遥に望み、視野は極めて広い。頂部に方形状の本丸とこれを守る二の丸とを置き、城壁は石垣をもつて堅める。その裾には内堀をめぐらし、更にこれを略々方形状に三の丸と幅広き外堀とをもって囲む。三の丸の北(大手)・東及び南に開かれた門には何れも馬出を備えている。
本城は山陰道を押える要衝として重きをなし、家康はその堅固に過ぎることを責めたといわれるが、現在内堀は一部を存するのみであり、且つ大手門と南門よりそれぞれ本丸に至る複雑な構が殆ど失われ、大手門また湮滅しているのは惜しいことである。しかしながら全体の規模はよく遺存し、特に南門の馬出が略々完存し、東門また概ね旧態をとどめていることは、この種遺構の乏しい現在貴重であり、且つ外堀は今なお満々と水を湛えて、方形状の曲輪が同心的に配置された縄張の典型を見ることができ、城郭史上価値ある遺跡である。