堂之上遺跡
どうのそらいせき
概要
S55-05-021[[堂之上]どうのそら]遺跡.txt: 本遺跡は北アルプスの西を南流する飛騨川の最上流部、日本海側との分水界付近に位置し、飛騨川本流と八尺川の合流地点に形成された小平野を望む比高約30メートルの段丘上に営まれている。
本遺跡は早くも明治30年に学界に報告されており、以来地元研究者を中心にしばしば調査研究の対象となされてきたものである。本格的な発掘調査は、昭和48年から54年まで久々野町教育委員会によって実施された。その結果、繩文時代前期及び中期の竪穴住居43棟からなる集落跡が確認され、特に中期後半の時期には広場を囲む環状集落が形成されている。中央広場には200か所以上の立石・集石・土坑の痕跡がみとめられ、土坑のほかにはクリ・ハシバミ・クルミなどの堅果類を含むものがあった。中期後半の竪穴住居には2つの類型があり、一つは河原石を用いた石囲炉と埋甕の風習を伴うものである。この石囲炉のなかには、三叉状文様を刻みこんだ巨大な石棒を立てたものがみられる。他の一つは複式炉をもつ住居で、この炉には扁平な板石が使用され、炉の周辺にも板石を敷いて敷石住居をおもわせる例もある。この住居類型は、前者から後者へと変遷したことが遺構の重複関係から明らかであり、文化的なつながりが信州方面から北陸方面へと大きく転換したことを示すものとみなされている。出土した土器に関東・信州方面あるいは東海・近畿方面の土器ないしその影響をうけた土器が多数認められる事実ともあわせて、本遺跡は、日本のほぼ中央に位置し、繩文時代における文化的な交流のあり方をうかがう上で重要な意義をもつものと考えられる。