明月記断簡 建久五年十二月四日・五日・六日・七日条
めいげつきだんかん けんきゅうごねんじゅうにがつよっか いつか むいか なのかじょう
概要
『明月記』の建久5年(1194)12月4日条から12月7日条までを記した断簡。このとき、藤原定家が33歳、従四位下にあるときで、九条家に家司として出仕し、順調に昇進をしていた。
12月4日条は、定家が大将殿(左近衛大将の九条良経)のもとに参上、殿下(九条兼実)と良経の「御堂御八講」行きに、藤原伊輔・源雅行・藤原高通・藤原家綱・藤原頼房が供奉する記事。兼実と良経の各々の昇殿の仕方、着座の場所、その他昇殿した公卿が記される。しばらくして右大臣の藤原兼雅が来着。季高と奉行の業家とが口論となる。阿弥陀経が読経されている間に公卿らは退出したが、兼実はなお残り、布施をした後に帰る。定家は良経に同道し、北小路から帰る。
5日条は、定家が九条殿に参上する記事。この日、法華懺法が結願となった。散花を行い、盛実・有家・能季・下官・保季・盛房が取次をした。定家は良経のもとに参上して、夜更けに退出した。
6日条は、定家が大炊殿に参上し、続いて頭中将に弓場始のこと、弓場始の装束の新調のことを申した後、女房に謁し、明年の叙位のことなどを申したと記す記事。
7日条は、定家が良経のもとに参上した後、鳥羽殿に参上し、暗くなって帰宅したと記す記事。
本品が収める12月4日条から7日条は、冷泉家時雨亭文庫に残る自筆本(国宝)の断簡で、自筆本に近いとされる徳大寺家本や、国書刊行会本には所収されていない。本品は自筆本を補う資料として貴重である。