勝興寺本堂再建に付本願寺17世法如勧募消息写(勝興寺第19世法薫筆)
しょうこうじほんどうさいけんにつきほんがんじ17せいほうにょかんぼしょうそくうつし(しょうこうじだい19せいほうくんひつ)
概要
勝興寺本堂再建に付本願寺17世法如勧募消息写(勝興寺第19世法薫筆)
しょうこうじほんどうさいけんにつきほんがんじ17せいほうにょかんぼしょうそくうつし(しょうこうじだい19せいほうくんひつ)
ほうにょ,ほうくん(せんいく)
富山県高岡市
天明8年(1788)9月12日付〔原本:安永4年(1775)7月下旬〕
紙本・継紙(巻子)・墨書
本紙:縦27.2cm×横186.1cm
全体:縦30.5cm×横207.4cm,軸長33.2cm
1通
富山県高岡市古城1-5
資料番号 1-01-241
高岡市蔵(高岡市立博物館保管)
本願寺17世・法如(※1)が勝興寺の与力・末寺・惣門徒に同寺の本堂再建について寄付を呼び掛けたものである。安永4年(1775)7月下旬の法如消息を、勝興寺19世法薫(※2)(法如10男)が天明8年(1788)9月12日付で写したものである。
明和7年(1770)、法薫は還俗した加賀前田家11代当主・前田治脩(※3)(はるなが/1745~1810)の跡を受けて勝興寺に入り、本堂再建事業を継承した。勝興寺にはこの2年前(※4)の同文の法如消息が所蔵される。
勧募消息は近世に76通あり多くは本願寺関係であるが、一般寺院では勝興寺のほか常楽寺(京都市下京区学林町。1338年親鸞玄孫の存覚(ぞんかく)開基。常楽台とも)・毫摂寺(ごうしょうじ/福井県越前市。真宗出雲路派本山)の2例しかない。
勝興寺の本堂再建について越中全域から寄付金や木材などが大量に寄せられ、藩は何度か制限や禁止措置を出さねばならないほどであったという(※5)。その結果、本史料より7年後(原本より20年後)の寛政7年(1795)6月19日本堂は竣工した(令和4年12月12日国宝指定)。
本史料には全体的に折れ、シワ、一部表具からの本紙ハガレなどが見られる。
【注】
※1 法如 ほうにょ 宝永4年(1707)10月9日~寛政元年(1789)10月24日〔在位:寛保3年(1743)~寛政元年(1789)〕
江戸中・後期の浄土真宗本願寺派の僧。西本願寺17世。諱・光闡。号・法如、寂峰、薫堂、乾享斎、字子武。院号・信慧院。播磨(現兵庫県)本徳寺寂円の二男として生まれる。享保5年(1720)河内顕証寺を継ぎ、法名を寂峰と称した。西本願寺16世湛如の後継者静如の退隠により、寛保3年(1743)継職した。寛延元年(1748)蓮如の250回忌、宝暦元年(1751)には学林の工事を起こし、翌年落成した。同3年(1753)学林に黄色麻布の袈裟を許した。宝暦10年(1760)阿弥陀堂改築工事が落成。同13年(1763)宗祖親鸞500回忌を勤修。明和2年(1765)真宗法要の校刻を完成した。安永3年(1774)紀伊藩領下で宗名を浄土真宗と称え、翌4年(1775)には高槻藩領下でも実現したが、浄土真宗の公称は浄土宗増上寺の反対で実現しなかった。また興正寺が本願寺から独立する動きが生まれた。蓮如の領解文を刊行するなど教学振興に尽力したが、在職中に明和の法論を引き起こした。
〔『真宗人名辞典』(法蔵館、1999年)〕
※2 法薫 ほうくん 宝暦8年(1758)1月13日~天保2年(1831)9月29日〔在位:明和7年(1770)~天保2年(1831)〕
本願寺法如10男(或いは9男)。諱・闡郁(せんいく)。法印・権大僧都。院号・摂受院。勝興寺19代(14代)住職。明和7年(1770)9月23日入寺。妻は加賀前田家11代当主・前田治脩養女芳明(智光院。~1800.6.6没)。化粧田200石を伴い入輿。安永2年(1773)寺務補弻として本山より下間宰相(しもつまさいしょう/宗清)を呼び寄せた。勝興寺本堂再建の件では先代法暢(ほうちょう/前田治脩)の遺志を継ぎ本山阿弥陀堂(間数24間4面)を模して建造し、寛政7年(1795)に完成した。前田家からは多くの資金や材木が勝興寺に寄付されるなど、本堂再建に大きく尽力した。そのほか、享和3年(1803)に風趣が失われつつあった布施の景色を絵師・原在中(1750~1837)に描かせ、在京の公家たちに和歌を詠ませた巻物を製作したことでも知られる。また法薫が文化2年(1805)11月に起きた西本願寺派(本派)を二分する教義争論「三業惑乱」に関わり、江戸寺社奉行で取り調べを受けた際には、大勢の信徒たちが法薫の釈放願いのため勝興寺や金沢別院へ押しかけるなどした。なお法薫の画像は天保2年(1831)に制作されたもののほか、別に33回忌〔文久4年(1864)〕に制作されたものがある。享年74。
〔『雲龍山勝興寺系譜』(荻原樸編集、大正2年)〕
〔『勝興寺宝物展』図録(高岡市教委文化財課編集、平成17年)〕
〔『富山大百科事典 電子版』(北日本新聞社)土井了宗「三業惑乱」項(令和5年1月25日アクセス)〕
※3 前田治脩 まえだ・はるなが 延享2年(1745)正月4日~文化7年(1810)正月7日〔勝興寺住職在位:宝
暦11年(1761)~明和5年(1768)/前田家当主在位:明和5年(1768)~享和2年(1802)〕
加賀前田家11代当主。幼名・尊丸(たかまる)。法名・闡真(せんしん)、法暢。還俗後の名・時次郎。諱・利有。6代当主前田吉徳の10男として金沢に生まれる。母は側室・夏(寿清院)。延享3年(1746)4月28日越中古国府勝興寺住職に定められ、6月6日に尊丸と改名した。宝暦6年(1756)閏11月1日同寺に移り、同11年(1761)2月25日京都西本願寺で得度、闡真と改称し僧侶となった。しかし生年の延享2年(1745)に父吉徳の死去に加え、その後も7~9代当主となった実の兄たちの早逝、10代当主重教も後継に恵まれなかった。そのため明和5年(1768)還俗し10代当主で兄の重教の嗣子となり、時次郎に復して諱を利有と称した。同8年(1771)家督を相続、正四位下左近衛権少将兼加賀守に任ぜられ、将軍徳川家治の偏諱を賜り治脩と改名した。安永元年(1772)12月左近衛権中将、寛政4年(1792)12月参議に進む。藩財政の逼迫、領内諸階層の貧窮化に対して士風の刷新と財政再建・諸階層救済に努める。貧村成立方仕法(ひんそんなりたちかたしほう)、高方仕法はその一環。享和2年(1802)隠居、同年3月11日肥前守となる。文化7年(1810)正月7日金沢で死去した。享年66。法号太梁院俊山徳英大居士。野田山に葬られる。後大正6年(1917)11月17日従三位を追贈された。
〔日置謙 編『加能郷土辞彙』(金沢文化協会、昭和17年)〕
〔光井渉著『勝興寺境内の文化財的価値に関する調査研究報告書』(東京藝術大学受託研究事業報告書、平成31年)〕
〔『富山大百科事典 電子版』(北日本新聞社)見瀬和雄「前田治脩」項(令和5年1月22日アクセス)〕
※4 天明6年(1786)9月8日付。但し「法崇」名(写しの写しの可能性もあるか)。№114-3(『雲龍山勝興寺文書目録』p34)
※5 古岡英明『勝興寺本堂修復落成慶讃法要 蓮如上人五百回遠忌法要 参拝のしおり』(勝興寺本堂修復落成慶讃記念事業実行委員会、平成17年)p15
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高岡市立博物館