菊花蝶鳥鏡
きっかちょうとりきょう
概要
透明なガラスの背面に銀色の膜を貼り付けた「ガラス鏡」が、日本で広く使われるようになったのは、19世紀後半以降のことです。それ以前の鏡はもっぱら銅製で、銅を熱して溶かし型に流し込む鋳造の技法で作り、片面を磨いて像が映るように仕上げ、背面にはさまざまな文様を表現しました。日本における銅鏡の歴史は、紀元前2世紀ころに中国からもたらされたことに始まります。8世紀ころには、中国・唐の銅鏡が数多く到来し、それを模した鏡も、国内で製造されました。10世紀から12世紀のあいだに、鏡の形や文様はしだいに変化していき、日本固有の形式や表現をもった銅鏡が成立することとなります。
この丸く小さな板も、日本で作られた銅製の鏡です。鏡の背面の中央あたりに二羽の鳥と2匹の蝶を配置し、全体に菊の花の文様を散らしています。中心の鈕(つまみ)には、紐を通すための穴が貫通しています。鏡は銅の鋳造で、たいへん薄く軽く作られています。鋳型(いがた)にヘラを使って微妙な凹凸を付けることにより、小鳥や蝶や菊は、柔らかな膨らみをもったレリーフ状にあらわされます。これらの特徴は、平安時代12世紀の銅鏡の典型です。
この鏡は、「羽黒鏡」(はぐろきょう)という別名ももちます。明治末年から大正時代、山形県羽黒山(はぐろさん)の出羽三山神社(でわさんざんじんじゃ)の本殿前にある、御手洗池(みたらしいけ)から、600面近い大量の鏡が発見されました。現在は出羽三山神社や東京国立博物館など、複数の所有者に分かれて所蔵されています。