渋沢栄一書扁額「博施於民而能済衆」
しぶさわえいいちしょへんがく ひろくたみにほどこして よくしゅうをすくう
概要
“近代日本資本主義の父”といわれる渋沢栄一(1)の扁額である。
内容は渋沢が愛読した『論語』「雍也」の一節「博施於民而能済衆」(博(ひろ)く民に施して能(よ)く衆を済(すく)う)で、「広く恵みを施して、民衆を救う(のが聖人の道である)」という意(2)である。
渋沢には『論語と算盤』(1916年)という著書があり、実業家はただ利益のみを追求するのではなく、国家目的に寄与する倫理観を持たねばならないという「経済道徳合一説」を絶えず強調していた(3)。本資料はその思想の一端がうかがえるものである。
落款は「戊午六月於/高岡客舎/青淵老人書」とある。『渋沢栄一伝記資料』によると、渋沢は明治19年(丙戌)と大正7年(戊午)の2度、来高しているので、本資料は大正7年(1918)のものとわかる。また、伝記によると渋沢は同年6月6~8日に高岡堀上町の旅館「大昌楼」に2泊しているだけでなく、多くの予定の合間に計4回、小憩・帰宿している(4)。
印章は白文方印「渋沢/栄印」、朱文方印「青淵」。引首印(朱文方印)は「人間貴/晩晴」(5)。
本資料は高岡市で古美術商を営んでいた寄贈者の父が入手したものであるという。
状態は悪い。本紙全体にヤケが甚だしく、シミもみえる。また、金地の右側にサケがみられる。
《注》
※1【渋沢 栄一】しぶさわ えいいち (1840~1931)
実業界における明治大正期最大の指導者。武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)の名主の長男として生まれ,22歳のとき江戸に出て尊王攘夷運動に参加,横浜の異人館焼き打ちなどを企てたあと,京都で一橋(徳川)慶喜の家臣となる。慶喜が将軍となったとき幕臣となり,慶応3(1867)年慶喜の弟昭武に随行してパリ万博に赴き欧米を見学,帰国後徳川家と共に静岡に移住した。明治2(1969)年新政府に召されて大蔵省に入り,井上馨と共に財政制度確立に努めたが,各省の抵抗にあい,同6年大蔵少輔事務取扱のとき辞職。同年6月第一国立銀行創立に当たり総監役となり,8月開業。8年1月より同行頭取として長く経営に当たった。また7年には王子に抄紙会社(のちの王子製紙)を設立,甥大川平三郎をして技術部門を担当させた。渋沢の自身の事業は以上の2社が主で,財閥といわれるほどの規模には達しなかった。しかしその本領は財界の指導者としての活躍にあった。すなわち9年東京会議所(のちの東京商業会議所)会頭となって長期勤続したのをはじめ,東京・青森を結ぶ日本鉄道会社,最初の本格的紡績企業たる大阪紡績の創立(1881)に当たっては,株主を勧誘し人材を集めて産婆役を務めた。その後,東京ガス,帝国ホテル,北海道炭鉱鉄道,東洋汽船,京釜鉄道など重要企業の創立に当たっては発起人として旗振り役を務め,人びとは渋沢の信用によってそれに参加するようになり,財界の指導者,まとめ役の役割を果たした。「論語とソロバン」を両立させるべきだという持論は有名で『論語講話』の著書もある。明治41年には訪米実業団団長として渡米。大正9(1920)年,積年の功により,子爵を授けられた。号は青淵。
明治28年(1895)年12月に設立された株式会社高岡共立銀行の支配人の人選を頼まれた際、第一国立銀行行員の大橋半七郎を推薦した。それ以来同行やのち合併する高岡銀行のために尽力した。大橋・木津太郎平らに対し、経営上のアドバイス、戒めや激励などの書簡を多数送った。また大正3年(1914)に高岡共立銀行が本館を新築する際、清水組(初二代は富山県人。現・清水建設)を紹介した。さらに同7年(1918)6月には高岡を訪れ、銀行のほか伏木や高岡各所を視察。また小中高校など多くの場所でスピーチを行っている。
(HP「朝日日本歴史人物事典」朝日新聞出版、HP「公益財団法人渋沢栄一記念財団/渋沢栄一ゆかりの地/富山県/高岡共立銀行」、『たかおか 歴史との出会い』高岡市、平成3年)
※2【博施於民而能済衆】(博(ひろ)く民に施して能(よ)く衆を済(すく)う)
『論語』雍也第六 28
子貢曰く、如し博く民に施して、能く衆を済うもの有らば、何如。仁と謂うべきか。子曰く、何ぞ仁を事とせん。必ずや聖か。(下略)→子貢が先師にたずねていった。「もしひろく恵みをほどこして民衆を救うことができましたら、いかがでしょう。そういう人なら仁者といえましょうか」
先師がこたえられた。
「それができたら仁者どころではない。それこそ聖人の名に値するであろう。(下略)
(HP「Web漢文大系」)
※3 ※1に同じ。HP「(公財)渋沢栄一記念財団/渋沢栄一略歴」
※4 『渋沢栄一伝記資料』第57巻、p.650-652
「竜門雑誌 第三六一号・第七七―七九頁 大正七年六月/○青淵先生の北陸旅行」
※5【人間貴晩晴】
「天意夕陽を重んじ」に続き、「人間晩晴を貴ぶ」と続く古詩の一節。渋沢の座右の銘のひとつ。「人の生涯をして重からしむると軽からしむるとは、一に其の晩年にある。(中略)人の一生に取つて晩年ほど大事なものは無い。」と著書『実験論語処世談』21に記している。
(『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.132-142)