西有穆山関係資料
にしありぼくざんかんけいしりょう
概要
西有穆山は、幕末から明治の激動期に宗教者として活躍し、曹洞宗の管長という最高位に達した人物である。文政4年(1821)に浜通村支村湊(現青森県八戸市港町本町)に生まれ、13歳で仏門を志して出家後、各地で修業し頭角を現すとともに、『正法限蔵』の研究と伝承に寄与した。明治34年(1901)から4年間、曹洞宗二大本山の一つ総持寺(神奈川県横浜市)の貫主に就任し、明治35年(1902)からは宗門代表である管長を務めた。
穆山は13歳で出家後、14歳からは5年間を法光寺(青森県南部町)で過ごし、同寺で宗教者としての修業を開始したといえる。明治7年(1874)には同寺の三十世として迎えられ、3年間住職を務めている。また、穆山は平成29年6月28日に国登録有形文化財となった「法光寺承陽塔」建立の発願者でもある。そのため、法光寺は穆山と縁の深い寺院として、多くの書画及び書状などを所蔵している。