前田利長遺言状(写)
まえだとしながゆいごんじょううつし
概要
本資料は、加賀前田家2代当主前田利長が病に伏した際、家臣に対し遺言ともとれる訓示を記した写本である。原題は「前田利長乍病中存寄之趣ヲ老臣及組頭マデ守ル書條々」。利長は高岡入城(慶長14(1609)年)の翌年3月に癰(ヨウ,悪性の腫れ物/また梅毒とも)を病み、侍臣・長田牛之助兄弟らの歌舞伎者60余人を斬罪しており、武士の生活が放逸していたなか、この遺言状は作成されたと推定される。
資料は金沢の郷土史家・俳人の太田南圃(※1)の旧蔵品で罫紙に墨書され、2丁目表欄外右端に「南圃書屋/太田」と「天野蔵書」の蔵書印がある。天野氏については不明。筆写者は不明だが南圃の可能性もあろうか。
虫損もなく状態は良好である。
本資料の釈文は『石川県史』第2編(昭和3年)、『加賀藩史料』第2編(昭和45年)、『高岡市史』上巻(昭和34年)等にほぼ同じものがある(※宛先人相違、釈文完全一致にあらず)。
内容3点を以下、分けて記す。
1)31名の重臣、並びに馬廻組頭中・鉄砲弓組頭中・小姓番頭中に宛て遺言状
この遺言状は現在宛所の家中の相違によって3種類(※2)確認できる。
①「利長公御遺書之写」家中に金沢の33名、高岡衆8名、直江安房守(本多政重)を加えた42名。
②家中に金沢の31名を挙げたもの(『松雲公採集遺編類纂』巻149 金沢市立玉川図書館近世資料館加越能文庫蔵)
③①に9名加えたもので51名
本資料は金沢の家臣31名を挙げているので上記②の資料に該当する。
「利長公御遺書之写」(※2)、「武家事紀」(『石川県史』第二編第二章第五節三国統一「利長の臣僚に与えたる書」p225-227)に同遺言状があり、金沢家臣31名に直江安房守と高岡衆8名を加えた40名宛、「前田家雑録」(『加賀藩史料』第2編p94-97)/『高岡市史』上巻p706-708)は①の33名、高岡衆8名、直江安房守を加えた42名宛である。
人数の相違はあるが内容は筑前守利光(利常の初名:以下利常)を補佐する事、幕府の命令を堅く守る事など7ヶ条を諭した遺訓である。31名の重臣のうち、後の加賀八家の前田(長種系)、長、横山、奥村(嫡流)、奥村(支流)、村井が重臣として名を連ねており、前田家(直之系)と本多家の名は連なっていない(異本にはある)。筆頭の前田対馬守(※3)は守山城代時、利常を養育しており家臣全体を束ねる位置にあったとみなされ、4番目の高山南坊(右近)は加賀八家と同様重臣とみなされていたことが伺える。
(内容)
腫物が再発し、歩くことも困難になったので存命の内に利常のこと懸念し、病ながらも申す。公儀の守るベきことを専一にし油断してはならない。利常のためとなるならば利常に異見すべきである。利常がまだ若いので諸事面々心をこめて奉公してほしい。隔意、意趣遺恨があっても懇意にし、これに背く者は公儀を軽んじる者と同様、忠義の者ではない。加越能三ヶ国の家督を譲ることができたのも将軍(秀忠)、姫君(珠姫)、大御所(家康)の厚恩のおかげであり両御所のことは利常と同様家中下々に至るまで公儀を守ることを心掛けること。諸国出入の際は家中下々まで決まり事に背かないこと。家中の訴訟は依怙贔屓等せず公正を守る事。利常が成人をしたならば助言はいらないが公儀の御恩は利長が亡き後も利常が忠勤し代々相続するように申す条である。その意を理解して心掛けてくれればこれほど嬉しいことはない。
2)覚(家中への遺誡の執行につき)
1)の「隔意、意趣遺恨があっても懇意にすること」を受けて具体的に指示した9ヶ条の覚である。宛先は前田対馬守(長種)・奥村伊予守(永福)(※4)で家中相互の対立を理由に幕府が介入し前田家の存続が危ぶまれないよう両名に委ねている。「武家事紀」、「三州志等考定」(『石川県史』第二編第二章第五節三国統一「利長より前田長種・奥村永福に与える書」p227-229)、「前田家雑録」(『加賀藩史料』第2編p100-101)に同覚がある。
(内容)
長いあいだ持ち続けている恨みがあっても正しい判断をすること。具体的に横山山城守(長知)姉娘と神尾主殿助(之直)の縁組、山城守姉娘と山崎市正(長徳)の縁組、南坊と村井出雲守(長頼)との対立関係の解消、誓紙の差出の指示がある。
3)敬白天罰上巻起請文前書之事
1)の「公儀の守るベきことを専一にし油断してはならない」「両御所のことは筑前と同様家中下々に至るまで公儀を守ることを心掛けること」「家中の訴訟は依怙贔屓等せず公正を守る事」を受けた3ヶ条からなる起請文の前書きである。利長は対立厳しい家臣らよりこの起請文を提出させ、公儀(家康・秀忠)を前面に立てることで、利常を中心とした藩の体制を固めようとしていたことがうかがえる。「加藩国初遺文」(『加賀藩史料』第2編p99-100)等に同書あり。
(内容)
両御所に従い、背かないようにし公儀の御普請は油断なく勤めること。意趣遺恨があっても懇意にすることは家康、秀忠の親子のためと思い依怙贔屓、非道の取立等がないようにし公正を守る事を起請文としてあげている。
以上3点の資料から容易に解消しない家中内部の対立、利常を補佐する人物確保の懸念などが伺える。
※1 太田南圃『石川県大百科事典』参照
※2 見瀬和雄「前田利長の遺誡と慶長期の加賀藩政」
『加賀藩武家社会と学問・情報』加賀藩研究ネットワーク.2015.p69-70
※3 前田対馬守『石川県大百科事典』参照
※4 奥村伊予守『石川県大百科事典』参照
<参考>
・『加賀藩史料』第2編 昭和45年復刻版 ㈶前田育徳会 清文堂出版発行
・『高岡市史』上巻 昭和34年9月13日発行 高岡市史編纂委員会編者 高岡市発行
・『加賀藩武家社会と学問・情報』加賀藩研究ネットワーク編者 2015.10 岩田書店
「前田利長の遺懐と慶長期の加賀藩政」見瀬和雄著
・『シリーズ・緒豊大名の研究 第3巻 前田利家・利長』大西泰正編著
2016.08.01 戒光出版株式会社
「慶長期加賀藩家臣団の構成と動向」木越隆三著
・『加越能近世史研究必携』田川捷一編著者 1995.08.25北國新聞社
・『石川県大百科事典』北國新聞社出版局編集 平成5年8月5日 北國新聞社
・デジタルアーカイブシステム 20200201アクセス
・ 国立国会デジタルコレクション『石川県史』第二編 20200205アクセス