小督の塚
こごうのつか
概要
近代高岡文壇で活躍した俳人・俳画家・歌人の筏井竹の門の俳画「小督の塚」である。
『平家物語』や謡曲などで知られる悲劇のヒロイン・小督局の塚は現在、局ゆかりの嵯峨野(京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町)にある。芭蕉も訪れており、俳人・竹の門も関心があったであろう。塚は宝篋印塔か灯籠のような姿(現在は小さな五輪塔)で描かれ、ゆかりの桜の木に囲まれており、極めて薄い墨と淡い彩色で描かれ、その抒情性を感じさせる。しかし、ほのかな暖色系の色使いと、表具裂の鮮やかな朱色により、明るい印象を与える。
右側には「小督の塚(○にす)」とある。「(○にす)」のサインは『筏井竹の門遺墨百選』(昭和49年、高岡市立美術館)巻末年譜の大正8年(1919)の項に「この頃、(中略)「(○にす)」(中略)などの号がある」とあり、本作品の年代が推定できる。
本作品は付属品から、高岡市木舟町の堀田林次郎氏(郷土史家、古美術商)の所蔵であったことや、また昭和40年9月に高岡市美術館の「筏井竹の門遺作展」(主催:高岡市・高岡市美術館友の会)に出品されていたことがわかる。
また、別の付属品には竹の門の後継者というべき山口花笠による、竹の門の俳画についての聞き取り記録がある。筆者は旧蔵者の堀田林次郎であろうか。
また、箱書きをした「璃雲」は不明。
状態は極めて良好である。
<付属品>
①合わせ箱(蓋表墨書「小督(2)の塚 竹の門筆」、蓋裏墨書「璃雲生題(朱文方印「□□」)、箱身妻面貼紙墨書「竹の門/小督/の塚」)
②「山口花笠(3)談(昭和十一年九月廿五日夜)」(4)
③新聞切抜3点〔朝日新聞切抜(昭和40年9月16日付)「紅と紺と93 日本女性史/皇子めぐる策謀」)、同(同40年11月9日付)「カメラ散歩 平家物語㊶/小督局/琴の音悲し想夫恋」)、日本経済新聞切抜(年月日不明)「美の美/尾形光琳/小督局図」
④高岡市美術館「筏井竹の門遺作展」(昭和40年9月22~26日)関係書類(出品依頼状(木舟町 発田林次郎宛)、借用書、展示案内葉書、キャプション)
<注>
1.筏井 竹の門(いかだい たけのかど/たけのもん)
生没:1871・11・28~1925・3・29(明治4・10・16~大正14)
俳人・俳画家。名をたけのもん,とも呼ぶ。北雪(ほくせつ)・四石(しせき)の別号がある。本名は虎次郎,旧姓向田。旧金沢藩士の家系。金沢市に生まれる。1892年(明治25)高岡に転居,繊維商に勤務。97年日本派俳句会越友会(えつゆうかい)の結成に参画。1900年高岡大火後の住居を〈松杉窟(しょうさんくつ)〉と呼び,各地の俳人が来遊した。河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)に師事し,越友会の指導者,『高岡新報』俳壇の選者として俊鋭清新な作句と温雅な人格で後輩を誘導,俳誌『葦附(あしつき)』の刊行,浪化忌の開催など越中俳壇に貢献する。大正期には自由律俳句に向かう。また冨田渓仙(けいせん)・小川芋銭(うせん)らと親しく往来して俳画に打ち込み,多数の淡彩墨画を遺(のこ)す。句集・歌集・遺墨集4種がある。享年55歳。高岡古城公園に〈宴(うたげ)つづく思ひの朝寝さへづれり〉の句碑がある。〈労働祭の踏みあらした草の雨あがる〉(1927年『竹の門遺墨集』)は最晩年の作。〈江沼半夏〉
HP「富山大百科事典[電子版]」平成22年、北日本新聞社、平成31年2月1日アクセス
2.小督局(こごうのつぼね)
生没:11157~不詳(保元2~不詳)
平安末期,高倉天皇の女房。藤原成範の娘。『明月記』によると元久2(1205)年には生存していた。治承1(1177)年皇女範子(坊門院)を生むが,以後出仕せず,3年出家。のちに嵯峨付近に隠棲した。『平家物語』巻6では,高倉天皇に寵愛されるが,平清盛の怒りをおそれて嵯峨に逃げる。天皇の使,源仲国に捜し出され,秘かに宮中に戻り,女子を生む。しかし清盛の知るところとなり,出家させられて宮中を追い出されたとある。これは清盛の悪逆の例として潤色されて描かれたものか。なお,天皇に召される以前に藤原隆房と交渉があったとする部分は,隆房作『艶詞』に多くよっている。
(櫻井陽子)
HP「朝日日本歴史人物事典」平成31年2月1日アクセス
3.山口 花笠(やまぐち かりつ/かりゅう)
生没:1878・12・3~1944・2・17(明治11~昭和19)
俳人。砺波郡福田村和田(現高岡市)に生まれる。本名林造。吟風凋とも号する。高岡育英小学校卒。年若いころから句作。1895年(明治28)ごろから同郷の句友寺野竹湍らと語らい,雑貨商のかたわら『日本新聞』の俳句欄に投稿,正岡子規の選を受ける。97年6月,河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)の来県を機に,寺野守水老・同竹湍らと語らい,翌7月に〈越友会〉を発足させる。子規没後は碧梧桐に付いたが,やがて碧梧桐の新傾向と合わず,大谷句仏(東本願寺23世)の〈懸葵〉に加わり活躍,本県俳壇にその名を高める。25年(大正14)〈越友会〉代表筏井(いかだい)竹の門の死去に伴い,その席を継いだ。のち『辛夷(こぶし)』に所属。この間『守水老遺稿』を編む(1928)。享年65歳。没後,句集『花笠句抄』(1944)が出版された。句碑〈雪解の北に流るる大河かな〉が高岡古城公園に建つ。〈黒田晩穂〉
HP「富山大百科事典[電子版]」平成22年、北日本新聞社、平成31年2月1日アクセス
4.「山口花笠談(昭和十一年/九月廿五日夜)」
釈文「明治四十四年、富田渓仙氏来高を機/とし竹の門氏との交遊始まる、此の時代/に同氏の俳画趣味培養され、渓仙氏/帰京後、恐らく大正元年頃より画/筆をとりしもの也、/没年、大正十四年三月二十九日逝く、/
雅号 使用年代別
イ (○に杉) 明治四十四年―大正弐年
ロ (○にス) 大正二年―大正四、五年
ハ 竹の門 大正五年以降
ニ 四石山人 大正八、九年度盛ニ用フ
ホ 竹の門 大正十三、四年晩年亦使用
番外 (○にタ)あり、□□
竹の門氏の俳画を日本的に推奨せしは/本県出身の本保秀隣氏が雑誌/「赤壁」「俳画人」論評せしによる」