伊予国松山在勤中并道中往返日記
いよのくにまつやまざいきんちゅうならびにおうへんにっき
概要
伊予松山藩に仕える人物が、天明元(1781)年5月16日に江戸を出発、松山で勤務して再び江戸に戻る翌年4月19日までの約1年間の日記。松山藩主となって間もない松平定国と行動をともにした人物により記されている。筆者は江戸に暮らす両親のことを「おとゝ様」「おかゝ様」と記し、自らのことを「奥附之衆」としているので、定国に仕えていた奥女中が書いた日記と考えられる。
勤務地の松山に関する記述では、天明元年8月13日の道後八幡と、8月26日の味酒大明神の祭礼が詳しく記された部分が興味深い。道後八幡の祭りでは鉾4つ、山車1つに、芭蕉の作り物が出て、子どもが鬼の面をかぶり太鼓や鉦を打ち鳴らして行列した後、神輿が大勢の見物人を追い散らすようにくるくる廻ったとある。味酒神社の祭りも、鉾4つ、かつぎ屋台6つに、いろいろな人形の作り物が出て、神輿は大勢の見物人の中に入り暴れたと記している。奥女中は、こうした荒っぽい神輿について松山の風習であり、「おもしろからす」と書き残している。
また、日記には、江戸に住む筆者の妹と思われる「おきさ」がしばしば登場する。「おきさ」は鳥取藩に仕える奥女中であったが、翌年再び国元への下向があるため、勤めを辞め就職活動中である。筆者は江戸の鶴岡藩や横須賀藩の懇意な奥女中に手紙を書き、「おきさ」の採用を働きかけている。
江戸時代の奥女中に関する記録は数少ない。そうした中、奥女中自らが日々の暮らしを書いた本資料は、貴重な記録史料といえる。
所蔵館のウェブサイトで見る
愛媛県歴史文化博物館