豊臣秀吉の掟書
とよとみひでよしのおきてがき
概要
天正18年(1590)に豊臣秀吉と後北条氏との間で行われた小田原合戦に際し、後北条領国下の郷や村の人々に対し豊臣軍の行動を規制し、治安維持を保証するため、国ごとに多数発給された文書の一通です。
文面は「条々」に始まり、肥田郷、梅名村など、三島市中郷地区から
函南町北部の村落9 ヶ所の充所(所付け)が明記され、3 箇条の条文と罰則規定、日付が記されており、秀吉の朱印が押印されています。
その内容は、
「①庶民、百姓等は必ずこの地に戻ってきて生活する事。
②軍勢、また、その他のいかなる者であっても、この土地に戻ってきて住んでいる百姓の家を奪うようなことのないようにする事。
③土着の民、百姓に対して、もしも道理に合わないような言い掛かりをつける者がいれば、一銭切にする。また、麦などの作物を刈り取ることのないようにする事。」
とあり、「もし背く者があれば、速やかに処罰を加えるものである。」となっています。
戦国時代の戦争は、放火・略奪・人さらいなどを伴う過酷なものであったため、敵が攻めてきた場合、村人は家財を地中に埋め、領主の城に逃げ込むか、付近の裏山に小屋を造って避難したり、逃亡することが普通でした。この掟書が発給された4 月は、まだ韮山城で戦闘が続いているで、田方地方の農民は耕作を放棄して逃亡していたはずです。しかし既に麦秋の刈り入れと田越しの時期を迎え、農民を帰村させ、戦後復興を図ることが現実的課題となったのでしょう。この文書からは、そうした秀吉の占領地政策が垣間見えてきます。