豊臣秀吉朱印状(慶長役陣立て)
とよとみひでよししゅいんじょう(けいちょうのえきじんだて)
概要
豊臣秀吉から朝鮮出兵の命を受けた鍋島直茂(1538~1618)は、天正20年(1592)の渡海から一度も帰国することなく朝鮮への滞在を続け、5年後の慶長2年(1597)に帰国した。本資料は、同年2月21日に定められた総勢14万1500人の編成が示された陣立書。先手と二番は加藤清正と小西行長が籤によって2日交替で担うこととされ、計8組および日本軍の拠点となる城の在番衆で構成されている。そのうち単独で四番を担うのが1万2000人を動員する「鍋嶋加賀守・同信濃守」すなわち鍋島直茂・勝茂父子である。慶長の役でも九州・中国・四国地方の大名が日本軍の主力を担った。
本状発給の翌日付けの鍋島勝茂宛て豊臣秀吉朱印状には「去月十三日、竹嶋に至り着岸せしむの由、尤もに候。それに就き、りんず(綸子)三巻ならびに高麗串柿三十連到来、悦に思召し候。その地普請等、殊に申し付け在番せしむべく候」とあり、子の勝茂はすでに朝鮮に渡り竹島城に入っていた。父の直茂は7月に到着し勝茂とともに全羅道の侵攻などに加わっている。